特集2022.08.31

【陸上物語FILE 20 奥村隆太郎】「お陰様」の心をもった人間に 洛南高校陸上競技部中長距離パート 奥村隆太郎監督

アスリートの生き様を尋ねて全国を回る「陸上物語」。
記念すべき20人目のゲストは洛南高校陸上競技部中長距離パートの奥村隆太郎監督です。
先輩たちの「お陰」や自身の経験に基づいた指導で、三浦龍司選手や佐藤圭汰選手らトップクラスのアスリート達を育ててきました。手腕の秘密を深掘りします。

”都大路”全国高校駅伝を振り返る

ーーまずは、「都大路」お疲れ様でした。準優勝という成績、そして日本高校記録更新(日本人選手のみで編成されたチームでの高校新記録=2時間1分59秒)、振り返っていかがですか?

この1年間は、「(2時間)1分台」と「優勝」の2つを目標にしてやってきたので、1つ達成できて1つ達成できなかったということで…嬉しさ半分、悔しさ半分というところです。

ーーレース後は選手の口から「悔しい」という言葉を聞いたそうですが?

はい。優勝を目標にしてやってきた結果、2番(準優勝)で「悔しい」と言えるチームになった。それが生徒たちの成長だなと、私も見ていて感じます。

ーーレースでは監督が主役ではありませんが、背負うものは大きかったのではないでしょうか?

そうですね。今年に限ったことではありませんが、たくさんの期待の声をいただいていたので、何も感じずにはいられませんでした。しかし、生徒たちが伸び伸びとやってくれましたので、結果的には良かったんじゃないかと思っています。

陸上を始めたきっかけ〜勉強で洛南へ

ーー実は中学校でバスケットボールをやろうとしていた、とお伺いしました。

そうです。小学校の時にバスケットボールをやっていたので、中学校でもできたら続けたかったんですが、進学した桂川中学校にバスケ部がなくて…。体力づくりの一環で、陸上競技を始めたことがきっかけでした。

ーー当時の競技成績はどうでしたか?

そんなに顕著な成績はなかったですね。京都府の大会に進んだりするぐらいです。

ーー強豪・洛南高校陸上部からスポーツ推薦を受けられるレベルではなかった?

受験勉強しないといけないと自覚していたので、勉強を頑張っていました。

ーー実は、インタビュアーの私(庄野数馬)と奥村監督は、中学時代からの友人なんです。初めて出会ったのは進学塾でした。当時の奥村監督は、陸上競技に打ち込んでいるイメージをあまり表に出していなかったですよね?

塾ではあまり陸上の話をする機会がないですから、「勉強頑張っている奥村くん」という感じだったかもしれません。
もちろん学校では部活を頑張っていたので、学校の中では「陸上やっている奥村くん」という印象だったと思いますよ(笑)。

ーー奥村監督は一般入試で洛南高校に入学したんですよね。洛南は勉強で入るのは簡単ではない難関高ですから、共に朝から晩まで勉強していたのを思い出します。その当時の塾の岩井先生からメッセージをいただいてきました。

(岩井先生)「中学時代の奥村は、文武両道を地で行くタイプ。物事に取り組む姿勢、特に塾での宿題や授業中の態度はしっかりしていましたね。地頭が良いイメージで、国語が得意だった記憶があります」

よく覚えてくれてる…!

(岩井先生)「一方で、同じクラスメンバーの発言に対して激しくツッコむなど、クラスを盛り上げ、良い雰囲気を醸成してくれました」

ーー確かに真面目な子からヤンチャな子まで、(奥村監督には)友達が多いイメージがあります。

お陰様で、いろんな人と仲良くしていただいていましたね(笑)。

(岩井先生)「昨年も重圧の中、全国高校駅伝での好成績、おめでとうございます。並びに、お疲れ様でした。あわせて、母校を真剣に応援できる機会を作っていただき、感謝しております」

ーー今の洛南高校の子どもたちの頑張りというのは、OBたちにとっての勇気や活力にもなっていますし、楽しみにもなっていますよね。

本当に、高校駅伝前後にたくさんの方々から声をかけていただきました。その中でも、OBの方からいただいた声が特に多かった印象があります。たくさんの人に見ていただいている、関心を持っていただいている、ということを日頃から感じています。

洛南高校時代【厳しさ、感謝、謙虚、悔しさ】

ーー洛南での勉強と陸上の両立は大変ではなかったですか?

そうですね。でも自分以上に高いレベルで両立を実現しているクラスメイト(バレーボール元日本代表の福澤達哉さん)がいたので、僕がどれだけ頑張っても「上には上がいる」と思わせてくれ、良い刺激をもらっていました。

ーー洛南高校での3年間を振り返って、まず思い浮かぶことはどんなことですか?

本当に厳しくてきつくて…二度と戻りたくないと思います(笑)。

ーー2度と戻りたくない日々を、今は生徒たちに?(笑)。

どうでしょうか(笑)。彼らが今、当時の私と同じ気持ちで3年間を過ごしているかどうかは聞いたことがないのでわからないですけれど(笑)。少なくとも、私は戻りたくないですね(笑)。

ーー中島道雄先生にみっちり指導された3年間だったと思います。中島先生はどんな先生でしたか?

本当に今の私があるのは中島道雄先生のおかげだと思っています。私なんかがこの洛南高校陸上部の長距離を任せていただくなんて、本当に恐れ多いことで…。中島先生の後を引き継ぐというのは、私には荷が重すぎると今でも思います。ですが、中島先生に3年間指導していただいたおかげで、いろんな人と関わることもできましたし、陸上競技を通じて、たくさんのことを学ばせていただきました。先生には心から感謝しています。

ーー以前、この「陸上物語」で同じく洛南高校陸上部OBの森脇健児さんにインタビューさせていただきました。その時、森脇さんに記憶に残っている中島先生の言葉を伺うと、「雑巾の心」、「メッキは剥げる」、「兎になるな、亀になれ」、「ボケナスビ」でした。奥村さんが記憶している中島先生からのお言葉は何ですか?

私も「雑巾の心」は何度も先生からお聞きし、卒業後も心のどこかにはその言葉を持ち続けていたと思います。学校全体としても、そういった教えを大切にしていた部分がありましたから、特に中島先生はご自身の指導の中でも、それを見せてくださりました。
※雑巾の心:「自分を犠牲にしてでも、社会のために生きなさい。自分だけ良くなってもいけない、謙虚であれ」という教え。

ーー中島先生は練習場で真っ先にゴミ拾いをご自身が始めていましたよね。

そうですね。

ーー洛南時代の1学年上には、双子の松岡佑起さんと悟史さんがいらっしゃいました。松岡兄弟は奥村さんにとってどんな存在でしたか?

憧れの先輩であり、目標でした。常に彼らの背中を追いかけて練習していたことを覚えています。

ーー松岡兄弟の世代には、上野裕一郎さん(佐久長聖)や北村聡さん(西脇工業)など、陸上長距離界をリードされた選手が多数いらっしゃる世代でした。
奥村さんが2、3年生の時は「都大路」を走っていらっしゃいましたよね。

はい。当時は「中島先生を胴上げする」を合言葉にして、チームを盛り上げて取り組んできたつもりでした。しかし、なかなか思うような結果が出ず、本当に悔しい大会になったというのは、今でも覚えています。

ーーその悔しさをどう変換していったのですか?

高校を卒業して、大学進学後も競技を続けさせていただけることが決まっていたので、中島先生を胴上げすることの代わりになるよう、大学行ってから良い報告が出来るよう、頑張っていました。

洛南高校2005年卒、思い出トーク

ーーここに洛南高校2005年の卒業アルバムがあります。何組だったか覚えていますか?

確か3組だったと思います…(笑)。

ーーそうです!「陸上部エース」と書いてありますが、その時を振り返っていかがですか?

当時は男子校だったので、今と雰囲気は違いますけれど、高校生活全般を通して「楽しかった」という印象が強いですね。

ーー芸人さんが来校する事もありましたよね。僕らの時はサバンナさん、チュートリアルさん、千鳥さん、友近さんらが来てくださいました。

ただ、僕は文化祭に出たことがないんですよね。国体とか日本海駅伝とかと日程が重なるので、出席したことないんです。

ーーすみません(笑)。僕らが楽しんでいるときに…(笑)。

日本体育大学時代 恩返しを誓い諦めなかった4年間

ーーなぜ日体大に進もうと決めたのですか?

将来は体育教員になることが夢だったので、自然と体育大学、体育学部を目指すようになりました。

ーー強豪校の日体大では4年生でやっと箱根駅伝に出場できたのですよね?3年生までを振り返るとどんな時間でしたか?

高校の終わりぐらいに椎間板ヘルニアという腰の怪我をしました。大学入学後は、練習が思うようにできない期間が長かったんですよね。高校の時の自己ベストを、大学3年の終わりぐらいまで更新できなかったので、なかなか苦しい3年間だったかなと感じます。

ーー大学3年間、高校時代の記録を超えられなかった?

正確にいうと、4年間ですね。自己ベストが高校2年生の時の記録なので。

ーーどのように心を整理して、日々を過ごされていたんですか?

整理できていないところもあったと思います。自分の中では落とし所が見つからないような気持ちで、日々過ごしていたこともありました。けれども、「箱根駅伝出場」という目標があったから、「いつか自分が箱根を走るんだ」というモチベーションを持ち続けられたのだと思います。そのモチベーションがあったからこそ、怪我で苦しんでいた時も、何とか踏みとどまれたのかなと思います。

ーー孤独な戦いだったのですか?

孤独ではなかったですね。いろんな人に助けていただきましたし、周りで仲間が頑張っている姿を見て、「自分も頑張るぞ」と思えたので。

ーー奥村さんに限らず、高校時代の記録を超えられず、大学生活を送る選手も多くいると思います。
奥村さんはそんな選手たちにどんな言葉を贈りたいですか?

右肩上がりにずっと記録が伸び続けることは、なかなか難しいことだと思います。辛抱する時期は、多かれ少なかれ、みんなにあることだと思っています。私の場合はその期間が長かったというだけのことであって、諦めず続けていく限りは、みんな必ず我慢する時期はいずれやってきます。だから、「今我慢していれば、この先に絶対に良い思いが出来る」という気持ちを持って、頑張って競技を続けてもらえたらと思います。

ーー「この方のこの言葉が励みになった」というような言葉はありますか?

大学に進学してからは応援や付き添いではなく、選手として箱根駅伝に出場したいという気持ちがありました。そして、その思いを応援してくれる仲間がいたり監督がいたり、コーチやトレーナーの先生、たくさんの人が応援してくれたので「この一言」というのを決めるのは難しいですけど…。やっぱり原点となるのは「中島先生に恩返ししたい」という思いですかね。

ーー大学3年生までの間、中島先生と連絡を取りましたか?

頻繁に連絡させていただいていました。1年に2回ぐらいは休みをとって京都に帰る機会があったので、その度に学校にご挨拶に伺っていました。

ーーどんな話をしたんですか?

なかなか良い報告ができなかったのですが、先生にいろいろ話をしていただきました。おかげで「初心を思い出す」というか…高校の頃を思い出して「また頑張ろう」という気持ちになれました。

ーー大学4年間を振り返ると、どのような時間でしたか?

高校の時と同じく、苦しい時間の方が長かったですし、上手くいかない事の方が多かったです。けれども、今思えば、そういう辛い経験を積んだ事が今に活きていると思います。成功体験よりも、成功を目指して苦労した経験の方が、今の生徒たちに対する指導には活かせているのかな、と僭越ながら思っています。

最初で最後の箱根駅伝

ーー最終学年の4年生で初めて出場された箱根駅伝で7区、区間11位でした。7区を任されたのはいつ頃だったんでしょうか?

オフィシャルには、補欠登録から当日変更で7区に入れてもらいました。しかし、その数日前から監督には「お前で行くぞ」と言われていました。

ーーそれはなぜ?

当時日体大は下級生も本当に強くて、下級生でいくか、4年生の私でいくか、監督も悩まれていたと思います。その上で、最後は4年生の自分を推して下さったんだと思います。

ーー任された時はどんな思いでしたか?

嬉しかったですが、走れない悔しさは私が1番わかっているつもりだったので、同時に責任感も強くなりました。僕が選ばれるということは、誰かが選ばれないということ。「そういう悔しさを背負うんだ」という責任を感じましたね。

ーーその責任があるから頑張れる?

そうですね。駅伝は走る選手だけでやるものではありません。みんなの心が一つにつながった時、良い結果が出るスポーツだと思っています。

ーー当時、私も奥村さんの怪我のことは聞いていたので、箱根駅伝に出場してくれたことは涙が出るほど嬉しかったです。あんなにテレビに齧り付いて駅伝を見たのは初めてでした。走り終わってどんな思いになりましたか?

余韻に浸る余裕はあまりなかったですね。駅伝は総合の結果、順位を目標にするスポーツなので、「自分が良くても…」という部分があります。
当時は3位に入ることを目標にしていて※、私が襷を渡したのがちょうど3位に入れるかどうか、ギリギリのところだったので、後続の様子をハラハラしながら見守っていたのを覚えています。
※奥村さんが出場した2009年の箱根駅伝で、日体大は11時間13分5秒で目標の3位入賞を果たした。

日の丸をつけて走ることを目指すも…

ーー日体大卒業後はJR東日本に進まれました。これはどういう選択だったのですか?

大学4年生の時点で競技に未練があったので、出来たら実業団で競技を続けたいという気持ちがありました。そんな中、声をかけて頂いたJR東日本さんにお世話になることに決めました。

ーーその時の目標は何だったのですか?

実業団に行くからには「いつか日の丸をつけて走りたい」という夢がありました。

ーー種目は?

最終的にはフルマラソンをやりたいと思っていたのですが、怪我が多くてなかなかマラソンの練習ができず、引退してしまいました。夢は叶いませんでしたが、「いずれマラソンで日本代表に」という夢は持っていましたね。

ーーその怪我というのは椎間板ヘルニアですか?

そうですね。悪の元凶は腰だったのかなと思います。色々なところを怪我して、最終的には腸脛靭帯を痛めて引退しました。ですが、それも結局は椎間板ヘルニアから、体のバランスが崩れていって、それを庇って…というような形でした。

ーーJR東日本時代には、マラソンで2009年世界陸上ベルリン大会に出場した藤原新さんや、今まさに洛南高校OBの三浦龍司選手を指導していらっしゃる、順天堂大学の長門俊介監督がいらっしゃいました。
先輩たちの存在について教えてください。

藤原さんとは1年間、一緒に競技をさせて頂きました。長門さんとも一緒に合宿に行かせて頂いたり、一緒に過ごす時間が多かったです。お二人に限らずですが、実業団まで上がってくるような先輩方でしたので、それぞれに強いこだわりをお持ちだったり、競技に対する思いを持っていらっしゃって…。かつ、学生とは違い、社会人として社業に従事しながら、競技をすることに対する難しさや厳しさについて、先輩方から教えていただきました。

ーー2011年の実業団ハーフマラソンが山口県で開催されるとき、私(庄野)が山口放送でアナウンサーをやっていて、「選手」としての奥村さんと再会できることを楽しみにしていました。しかし、東日本大震災のために中止に…。あの時はハーフ、それからフルを目指していた途中だったのですか?

そうですね。レースに向けて合宿でも良い練習ができていましたし、これをステップに「次はフルマラソン」という気持ちで、頑張っていた大会でした。

ーー引退を決意した時のことは覚えていますか?

引退は「決意した」というより、「来年度のチームの構想に入っていない」というような事を告げられての引退でした。結果が伴わなかったので「それも仕方ないかな」と気持ちを整理して、「次に向けて頑張る」という心境でした。

ーー3年と少しの実業団生活にピリオドを打ってから洛南高校の教員になるまで、少し期間が空いたのですか?

はい。1年間会社でお世話になって、社員の一人として働かせて頂いた時期がありました。

「俺のあとを頼むぞ」恩師から受け取った”襷”

ーーそんな中、中島先生から声がかかった

声をかけて頂いたのはまだ現役で陸上をしていた、社会人3年目の時です。「次年度の教職員の採用試験を受けないか?」と言われたので、採用はその翌年になりました。

ーー「俺の後を頼むぞ」という意味だったのでしょか?

そういう意味が込められていたと理解しています。

ーー声がかかった時、どう思いましたか?

「え?嘘やろ」と思いました(笑)。

ーー(洛南高校陸上部OBには)高岡寿成さん※など世界レベルで活躍した方がたくさんいる中での抜擢。
その時中島先生にはなんとお答えしたのですか?
※高岡寿成:3000m、5000m、10000m、マラソンの元日本記録保持者。2005年世界陸上ヘルシンキ大会で4位入賞

「自分なんかでよければ頑張ります」と答えたと思います。

ーー断りたい気持ちはなかったですか?

断りたいとは思わなかったです。ですが、「本当に自分に務まるのかな」という不安は大きかったです。

ーーその不安は払拭できましたか?

今でも出来ていないところがあります。けれども洛南高校陸上部には歴史があるので、たくさんの先輩方がいらっしゃいます。私が採用試験を受ける時や洛南高校へ奉職する時に、いろんな先輩方から声をかけていただいて、相談に乗ってくださったので、なんとかここまで来れたのかなと思っています。

監督として 10年前の私と今の私

ーー次の春で就任10年目になります。これまで全国高校駅伝に9度挑戦し、うち8回出場、そして4回入賞されました。

2015年、阪口竜平※が3年生の時に入賞(6位)してmその次の年にも入賞して…確かに4回になりますね。※阪口竜平:第66回大会で1区5位と好走した。また、東海大3年生だった2019年箱根駅伝でも7区2位と好走し、復路逆転での総合優勝に大きく貢献した

ーーすごい成績ですよね。

生徒たちがよく頑張ってくれているので、毎年、入賞を狙える戦力で臨めています。そういう意味では、これまでに4回入賞できたことを良しとするべきか、入賞できなかったことが4回あったと捉えるべきか、というのは難しい部分だと思います。私としては入賞できなかったところをしっかり受け止めて、次に向けてやっていきたいと思っています。

洛南高校の強さの秘訣、指導法

ーーどんな指導法で強化されているんでしょうか?

一言で簡潔に説明するのは難しいですが…。まずは、生徒たちが自主的に「強くなりたい」という気持ちを持って、取り組んでくれることが前提だと思っています。その上で、洛南では「高校3年間でやっておかないといけない事をやる」というトレーニングのコンセプトを掲げています。身体作りやフォームを整えることが中心です。その結果、高校3年生ぐらいから伸びてくる子、そして大学に行ってから伸びる子が多いのは、高校3年間でやるべき事がきちんと出来ている成果なのかなと思っています。

ーー洛南のトレーニングと同じメニューを他校がやれば強くなるものですか?

選手たちに「強くなりたい」という意志があるかどうかによると思います。

ーーその意志を高めてあげるのが奥村さんの仕事ということでしょうか?

そうですね。子供をやる気にさせてあげるのが教師の仕事だと思っています。陸上の指導に限らず、やる気にさせる声かけや言葉を選ぶように意識しています。

ーー指導者になる前からそういった素質はおありでしたよね。「同級生だけどお兄ちゃん」みたいな…とても優しいんですけど、ちょっと怖い存在でした(笑)。

ーー監督としては全国の強豪校の指導者と比較するとお若いほうですか?

そうですね。27歳で就任してまだ30代なので、若いほうだと思います。

ーー生徒との距離の取り方で気をつけていることはありますか?

1年目の時は指導経験もなく、教壇に立ったこともない状態からのスタートだったことに加えて、中島先生の退職後に入ったので、いわゆる「引き継ぎ」みたいなものが一切なく、スタートしました。
最初の頃はどうしていいか分からずに、中島先生の真似事のような指導法からスタートしたのですが、その頃は本当にうまくいかなかったなと、今では深く深く反省しています。けれども、なぜ中島先生がやっていたことをモノマネしてもなぜ上手くいかなかったかというと、中島先生と当時の私とでは積み上げてきた経験が全然違うので、同じ言葉を言っても重みが全然違ったからだと思います。
なので、私にしか出来ない指導法を考えてやっていかないといけないなと思い直しました。中島先生になくて私にあるものというと、怪我で苦しんだ経験や年齢が子供たちと近いということだと思ったので、「先生」というより「先輩」のような気持ちで接し始めてから、少しずつ上手くいき始めたかなと思います。

ーーすぐには中島先生に相談に行かなかったんでしょうか?

最初の頃はしょっちゅう電話で相談させてもらっていました。中島先生からは、私がここで就任した時から「お前の好きなようにやったらいい」とアドバイスをいただいていました。振り返ってみると、それは「俺の真似しても上手くいかへんぞ」と暗に教えてくれていたのかなとも思います(笑)。

ーーこれまでの経験で、今はより良い指導が出来ていますか?

その時は、その時のベストだと思う指導をしているので、就任1年目に出会った生徒たちには、当時の100%を尽くしたつもりです。9年経って振り返ったら「もう少しこう出来たかな」という反省はありますが、「今あるベストを尽くす」という意味では1年目も9年目も変わっていないです。

ーー今の洛南高校の大躍進を、自分のことのように喜ばれている当時の生徒もいらっしゃるんじゃないですか?

喜んでくれている子が多いと思います。あとは「驚いている」という声も聞いたりします。卒業生だからこそ、高校駅伝やインターハイで上を目指すことの難しさを知っているので、そういった意味での驚きもあるのかなと思います。

三浦龍司選手たちが叶えてくれた私の夢

ーー教え子が世界で羽ばたこうとしていることについて、どのような思いですか?

洛南高校陸上部の誇りです。そういう選手が増えていってくれることを願い、思い描きつつ指導を続けていきたいと思います。そして、「陸上人」の一人としては、自分が「日の丸をつけて活躍できなかった」という願いを、自分の教え子が実際に叶えてくれていて…。彼らは僕の代わりとは思っていないでしょうけど、自分の代わりに叶えてくれているような気がして、とても感慨深いです。

ーー背負っているものが大きいだけに「ご褒美」のような感覚ですか?

そうですね(笑)。でもこんなに早く、三浦のように日の丸をつけてオリンピックに入賞する選手が自分の教え子から出てくるとは、就任当初は想像していませんでした。生徒たちのやる気や志に引っ張られるように、私も育ててもらったなと思います。

ーー今年の箱根駅伝は見ましたか? 

往路は見ていました。復路はラジオで聞きました。

ーーということは、青山学院大学5区・若林宏樹選手※の走りは見ていましたか?
※若林宏樹:洛南高校出身。2022年箱根駅伝で1年生ながら5区3位と好走した

見ていました。

ーー原監督から「若の神」と呼ばれていましたね。

「若の神」ってどういう意味なんですかね(笑)。

ーー実況のアナウンサーが、原監督が洛南高校で若林選手に「山の神にならないか?」と口説いたというようなことを言っていました。奥村先生もその場所にいらっしゃったのですか?

当時はコロナ禍だったのでリモート(Zoom)でスカウトのお話をしてもらっていたので、画面越しに原監督のお話を聞かせていただいていました。

ーー原監督の熱いオファーを受けて、奥村監督も「青学なら安心」と感じて送り出したのですか?

進路のことは基本的に選手と保護者の方に任せているので、あまり僕が何かをいうことはありません。ですが、若林が「登り」に強いことは高校時代から皆知っていたというのも大きいと思います。

ーーなぜ「登り」が強いのですか?

登りを走る上では、走り方の特徴と、体の軽さが必要だと思います。彼はどちらも兼ね備えていたので、登りの適性があったのだと解釈しています。
この子は登り、つまり箱根の5区で活躍する選手になると思っていました。そして、「どうせなら上位で活躍してほしい」という気持ちがあったので、青山学院大学にお世話になれて本当に良かったと思っています。

いきなり1年生で結果を出したわけですから、奥村監督にとっても正月の「お年玉」でしたね。

そうですね。青山学院大が総合優勝されたことはすごく感動することでもありましたけれども、若林自身のことを思うと、まだまだ区間3位ですし、区間では同じ学年の選手(東海大学・吉田響選手)に負けています。周囲から祝福の声をいただくことは多いでしょうけれども、「浮き足立たずに上手くいかなかったことを謙虚に反省できる」、そういったことを高校3年間で教えてきたと思っているので、そういうスタンスでこれからも頑張ってほしいです。

洛南高校陸上部が大切にしている言葉

ーー最後に、奥村隆太郎監督が大切にしている言葉を教えてください。

洛南高校陸上部が大切にしている言葉の一つとして、「お陰様」という言葉をよく使っています。
このインタビュー中にもお話しさせていただきましたが、たくさんの先輩方が陸上部の選手たちを応援してくださっています。そういったことに思いを馳せ、「お陰様で」という言葉が自然と出るような人に育ってほしいです。結果が良くても悪くても、そういう人に育ってほしいなと思っています。

ーー奥村さんの「お陰様で」良いインタビューが出来ました。ありがとうございました。

(笑)。ありがとうございました。

陸上物語の情報はこちら!

一般社団法人 陸上競技物語 公式サイト
https://www.athleticsstories.or.jp

陸上物語 YouTubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UCzNOexjBhTrFs99yuzuTBaw?

instagram
https://www.instagram.com/athleticsstories/

Twitter
https://mobile.twitter.com/athleticsstory

――
※この内容は、「一般社団法人陸上競技物語」の協力のもと、YouTubeで公開された動画を記事にしました。

関連記事

RELATED ARTICLE