特集2022.02.08

【陸上物語FILE 2 関根花観選手】  私を強くしてくれた「一本の襷」

アスリートの生き様を尋ねて全国を回る「陸上物語」。 
2人目のゲストはリオデジャネイロ五輪、女子10000mの日本代表、関根花観(せきね・はなみ)さんです。今回インタビューをさせていただいた場所は、関根さんや、東京オリンピック男子マラソンで6位に入賞をした大迫傑選手の母校「東京都町田市立金井中学校」。
学舎で庄野アナウンサーが関根選手の濃い陸上人生をたずねます。
リオオリンピック出場時、憧れの鈴木亜由子選手と走った日本郵政時代、そしてなぜ25歳の若さで引退したのか?!関根さんの陸上物語、始まります!

陸上競技を始めるまで

ーー関根さん、陸上競技を始めたのはいつですか?
中学1年生の秋頃です。

ーー小学生の頃は?
ダンスとソフトテニスをやっていました。ジャズダンスとヒップホップを。

ーーどうしてダンスを?
母がダンスをやっていたこともあって、4歳の頃からダンスをやっていたんですけれども、たまたま近くにダンススクールがあったので、最初は母に連れられて行っていたんです。やっていくうちに私もダンスにのめり込んでいきました。

ーーダンスを始めて、ソフトテニスもお上手だったというのもすごいですね。
上手かどうかは分からないですけれど。

ーーソフトテニスを始めたきっかけは?
小学校2年生からなんですけれど、祖父がソフトテニスをやっていて、最初は体験からという形で始めました。

ーーダンスをやって、ソフトテニスをやって、中学1年生から部活ではソフトテニスと陸上を?
最初はソフトテニス部員として活動をしていたんです。けれど、体育祭がきっかけで、たまたま800メートルという種目に出たんです。それを見ていた陸上部の顧問の先生に声をかけて頂きました。

ーーそこでスカウトされて?
最初は助っ人という形で、大会ごとに駅伝や、それ以外はソフトテニス部員として活動をしていました。陸上の大会前だけ練習に参加していたんですけれど、中学2年生ぐらいから一本化に。「陸上にしよう!」と、決断をしました。

輝かしいスタートを切る中学時代

ーー本腰を入れ始めたのは決して早い方ではないですよね?
そうですね。他の人たちと比べると、遅い方なのかなと。

ーーその1年後には、全国都道府県対抗女子駅伝競走大会で東京都代表、区間賞(3位)!何でそんなにすごいところに行っちゃったんですか?!
やっぱり顧問の先生の指導の元、先生を信じてやっていたので。先生のお陰です。

ーー選ばれた時はどんな思いでしたか?
そうですね。選考会を経ての代表入りだったので、本当に選考会前は緊張をしていて、その前の年(2年次)も走らせていただいていたんですけれど、あんまり思うような結果が出なかったので、中学生最後の年は絶対走って「結果を残したい」という気持ちが強かったので、東京都代表選考会が終わったあとは本当に言葉にならないような嬉しさがありました。

ーー2区のランナーからタスキをもらって4区のランナーにタスキを渡した時の瞬間って覚えているものですか?
ほとんど記憶にないんです。けれど、お姉さんにタスキを渡すような感じだったんで。次の走者(4区)が見えた時は、やりきった感。達成感に溢れていたことは覚えています。

ーーあの駅伝はやはり自信になりましたか?
はい!

駅伝の強豪校 仙台育英へ進学

ーー長距離のランナーにとってやはり「駅伝」というのは、高校、そしてその先(実業団)と「1つのテーマ」になると思うんですが、高校の進学先に選ばれたのは仙台育英高校。
そうですね。「最初」は。

ーーこれはどういうご縁で?
最初は都内の高校に進学予定だったんですけれど、
その中でも、当時の仙台育英の監督が声をかけてくださって、色々と話を聞いているうちに、より専門的な指導をして下さるという話だったので、もう話を聞いた瞬間から「絶対行きたい!」という感じでした。

ーーお母さんの影響でダンスを始めた、祖父の影響でソフトテニスを始めた、家族が大好きな関根さんが親元を離れるというのは寂しくなかったですか?
不安だったんですけれど、ワクワクが大きくて「早く仙台に行って走りたい」というのが強かったけれど、でもいざ1人で生活をしてみると、一気にホームシックになりました。

ーーそんな時はどうしていたんですか?電話?
そうですね、当時は。LINEとかもなかったので、携帯の電話で「今日、なになにがあった!」とか。

ーー高校に入学したのは何年ですか?2000、、、?
2011年4月に入学予定でした。

ーーその前の月に、東日本大震災が起きて
結局、入学は5月になったんですけれど。

ーー「仙台育英で早く走りたい!」と、思っていた。進学することが決まっていた。3.11の知らせを見た時、どんな思いでしたか?
まさか宮城県であんなに大きな被害が出ているとは思わなくて。東京でも本当にすごい揺れで。東北が大きな被害にあったと知った時は、本当に、映像を見て言葉にならなかった。そしてやっぱり「学校はどうなんだろうか?」というのが心配でした。

ーー当然、現地の方々も心配ですけれど、自分の人生をかけて仙台に行こうという最中。入学も1ヶ月遅れてその間はどんな思いで過ごしましたか?
本当に不安はあったんですけれど。仙台育英の監督とやりとりをしながら、自主練習だったりとかメニューを出して下さったり、「自分で身体を維持しよう」というのを大事に。「自分で出来ることをやろう」と過ごしていました。

ーーそして5月に入学して、陸上部に入って、年の暮れの都大路(全国高校駅伝)をチーム一丸となって目指して行こう!と、なると思うんです。「2011年の仙台育英高校駅伝チーム」って、強い思いがあったんだろうなと思うんですが、いかがでしたか?

練習環境も前年に比べると制限されたり、練習時間も節電の関係でナイターが使えなかったり、「工夫しながらみんなで精一杯やろう」と、あの時は一丸となって全国高校駅伝に出場出来たと思う。

ーーそんな中、結果は?
結果は女子は3位で男子は12位でした。

ーー皆さんにとって、どんな結果だったんですか?
入賞が出来れば大成功!と言う感じだったので、
まさかの3位。
本当に「嬉しいまさか」だったんです。「銅メダルもらえるなんて」みんな「嬉しい!」と、喜んでいました。

ーー仙台の皆さんにも元気を与えたと思うんですけれど、その反響はいかがでしたか?
学校のクラスメートのみんなとか、クラス以外の在校生のみなさんにも本当に喜んでくれて「走ってよかった」って思いました。

大震災の影響で豊川高校に

ーーただ、その年で仙台に別れを告げると。これはどういう理由があるがあったんですか?
震災の影響もあるんですけれど、色々な事情が重なって、監督が仙台育英で指導が出来ないとなって。その監督が次の編入先の高校を探してくださった。

ーーそして愛知県、豊川高校に。環境が変わって、練習は変わりましたか?
だいぶ練習内容は変わったんじゃないかな?

ーーどう変わりましたか?
指導者によって色々とやり方はあるんですけれど、仙台育英だと大きな練習をやって、休んで、大きな練習をやって、休んで。それに凄い良い点もあるんですけれど、豊川高校の練習は、8割の練習をずっと続けるような。全力では走らないけれど、継続的に。休みがなかったので、毎日淡々と走っていく練習だったので、かなり方針の違う監督だったのかなと思います。

ーーそれだけ距離走もして、負担をかけると、逃げ出したくなりませんでしたか?
正直に言うとありました。

ーーそう言う時はどうやって乗り越えていたんですか?
やっぱり1番は同じ境遇の仲間。一緒に仙台育英から豊川高校に編入した友達もいたし、愛知にいる友達もみんなで協力して乗り越えました。

ーーそして2年生、3年生と、申し分ない、これ以上ない結果を残されて、強さの秘訣ってなんだったのでしょうか?
やっぱり継続的な練習。どれだけ休みを入れずに、怪我とかをせずに、コンスタントに練習を積めるかというのが、大きな要因だったんじゃないかなと思います。

ーーフィジカル面ではそうですけれど、心の面ではどうですか?
監督も結構、その当時は怖いなと思っていたんですけれど、、、。

ーー強いチームの監督は怖いもの
それがすごい大事だったんですけれど。仲間たちと団結して、相談して、乗り越えていました。

出場出来なかったインターハイ

ーー駅伝は「チーム」としてのスポーツとしてあって、個人記録としてはどういうものを目標にしていたんですか?
私本当にインターハイに縁がなくて、出たかったんですけれど、怪我で出られなかったりとか、予選で負けてしまったりとか。本当にインターハイ出られなくて。高校生の時は「個人記録」というよりは、駅伝でどれだけ成績を残せるかに重点を置いていました。

ーーその後オリンピックのトラックを踏むということですから、高校時代は個人種目の好成績に縁がなかったというのが不思議でならないんですけれど。
もしかしたら駅伝を頑張っていたというのが、、、?

それもあると思います。
駅伝になると女子にも最初の区間で6kmなので、その6kmをどうちゃんと走るかという練習をしていたので、それをだんだん距離を伸ばしていくのが良かったのかなと。

日本郵政を選んだ理由

ーー駅伝で6kmになって、それが10km、10000mにつながっていたと。そして高校3年間を転々と過ごし、精神的にも大変鍛えられたと思うのですが。
高校卒業後選んだのは「日本郵政」でした。どうしてなんですか?

日本郵政の高橋監督に来て頂いて、お話をして頂いたんですけれど、まず私は長距離を始めた時から「いつかマラソンがやりたい」という思いがあったのでその監督は高橋尚子さんとか有森裕子さんとかの指導経験があって、監督の元でやったら「マラソンで成功出来る」んじゃないかという思いがあったのと、鈴木亜由子さんも愛知県出身で、愛知の高校生にとって、鈴木亜由子さんはみんなの憧れで「亜由子さんと同じチームに入られるだなんて!」という思いがあって。「亜由子さんと一緒に練習がしたい」、「マラソンがしたい」という2つの思いで。

日本郵政グループ時代

ーー長距離を始めた時からマラソンには挑戦したっかった。具体的には高校生くらいからですか?
いや、もう中学生くらいからやりたいなと思いました。

ーーそれともう1つ、鈴木亜由子選手。愛知時代の憧れのお姉さんだった訳ですけれども、一緒に練習をするようになって、その存在が「憧れ」から変わる部分もありましたか?
最初に一緒に走った時は、本当にもう遥か前を走っているような、練習でもそんな感じで。でも本当に目標となる方が近くで練習をしているというのは、自分のモチベーション維持にもなりますし、生活を見ているだけでも勉強になりました。

リオオリンピックで10000m日本代表に選出

ーーそして鈴木選手と共に掴んだリオデジャネイロオリンピック、女子10000m。あの日の光景を思い出していただけますか?
国内の大会とは全然違って、どの選手も「人生を賭けている」というのがひしひしと伝わってきて、「圧倒された」の、一言ですね。
(31;44.44/20位)

ーー関根花観!GOGO!花観!こうやって地元を背負って。

ーーこれよこれ!リオの時のID!

ーーこちらが?
レース当日これを着て、臨みました。

ーーなかなか脱いだ状態のユニフォームを拝見することはないので、貴重。
セパレートになっていて。

ーー我々がテレビで見ていた現物でございます。後に資料館に飾られることになるでしょう!
いやいや(笑)
本当に自分の人生のターニングポイントというか、貴重な経験になって、モチベーションはそこで大きく変わったと思います。

ーーそのモチベーションというのは、どう変わっていったんですか?
今まではオリンピックに出られればいいや。ぐらいの感じだったんですけれど、全然歯が立たなかったというのがすごく悔しくて。もし次出られるなら、世界と戦える実力をつけて出場したいと思いました。

フルマラソンへの挑戦

ーーリオオリンピックが終わった直後に今度はマラソンで東京オリンピックを目指します!と、仰っていたのが印象的だったんですが、長距離を始めた時から
「マラソンでオリンピックに出たい」という気持ちはあったと?

はい!

ーーただ、「自信」はどうだったんですか?
元々、トラックよりはロードが好きでしたし、練習もインターバル(短い区間を分けて走る)よりは距離走=長く走る練習の方が好きだったのでなんとなく自信はありました。

ーー監督の高橋さんも「絶対に行けるぞ!」と言ってくれていたから、それもあったんですかね?
はい!

ーーそして、2018年の初マラソン 名古屋ウィメンズマラソン(2018/3/11)
この大会というのはMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)がかかった大きな大きな大会。
スタートラインに立つ前はどんな思いだったんですか?

緊張はしていたんですけれど、そのレース前にアメリカで合宿を積んでいたので、そこでも納得が出来る練習が出来ていたので、不安はあったんですけれど、「多分、行けるんじゃないかな?」という自信もありました。

ーー序盤から海外勢に唯一、日本人で食らいついて行って。
本来だったらそのまま、優勝争いが出来るようになりたかったんですけれど、でも25km過ぎ時点で、このままついて行ったら後半もたないなというのがあって、切り替えて、自分のペースで走って行ったんですけれど。それも「次に繋がる良い経験」

ーー日本人トップの3位でフィニッシュ(2;23;07)MGCファイナリストに選ばれる。周囲は「ニューヒロインの誕生だ」と、もてはやしました。その時のお気持ちはどうですか?
自分の中では次のステップに繋がる過程の1つだったので、そこで満足しないようにと自分に言い聞かせて、「次の練習を頑張ろう」と、思っていました。

ーーもう2年後、東京オリンピックが控えていると、1年延期とはなりましたけれども。そんな中ですもんね。自分の中では「絶対にオリンピック出場」という?
ありましたね。

ーーそこからの練習は変わりましたか?
やっぱりマラソン中心の練習になりましたし、開催されるのが夏ということもあって、どちらかというと暑いのが苦手だったので、どう克服するかという練習に切り替わりました。

ーー練習の量は増えたんですか?
そうですね。やはりマラソンとトラックでは「質」という意味ではトラックの方が高いんですけれど、走る練習の距離は全く違うのでだから内容もガラッと変わるような感じです。

将来を期待されていた中での故障

ーーその因果は分からないですけれど、2019年故障してしまった。
そうですね、、、MGCの開催が9月で、ちょうど事前合宿の北海道、7月辺りにMGCの約2ヶ月前ぐらいに、北海道での練習だったんですけれど、そこで、何の前触れもなく急に、、、痛みが走って。その瞬間に「これ折れたかな?」というような、今までに経験したことのない痛みだったので、その瞬間ちょっとは覚悟をしていた。

ーー右足第二中足骨の疲労骨折。ただ、1年後には、オリンピック、それをかけたMGCがやってくる。どんなお気持ちだったんですか?
最初は本当に現実味がないというか。このMGCに向けて、名古屋ウィメンズが終わって1年以上それに向けて練習をしてきたので「この先、どうしようかな、、、」という感じで。しばらくは何も考えられないような状態でした。

ーーもう、練習も勿論出来ない?
はい。歩くのもやっと、みたいな感じでした。

ーーそんな時に励ましてくれる方はいたのですか?
チームメイトのみんなも、すごく気持ちを分かってくれて、一緒にリハビリを手伝ってくれたりとか、監督、スタッフも、まだ諦めないでいてくれたので。もしかしたら走られるようになるんじゃないかと、全力を尽くして下さって、勿論、家族とか両親も言葉で励ましてくれて、本当にあの時は周りの支えてくれる方々が居なかったら、どうなっていたのかな?という感じです。

ーー陸上を始めて、長距離を始めた時からマラソン選手になるんだ、地元開催の東京オリンピックに出るんだと。もうそこまで届きかけていた中で、そして刻一刻とMGCが近づいてくる。
多分、その焦りもあったのかなと思って。本来だったら自分でやり過ぎたと思ったら、練習をセーブしたりケアを重点的にしたりしなければいけないんですけれど。不安と焦りで、そこら辺のコントロールが出来ていなかった。

ーー陸上関係者どなたに聞いても、花ちゃんの笑顔で周りが明るくなるという。今日も素敵な笑顔ですけれど、関根さんが涙を流す時ってあるんですか?
そうですね。MGCに出られないってなった時もそうでしたし、骨が折れた当時は涙すらも出ないような感じ。徐々に現実味が出てきて、ポロポロって、きちゃった時はありました。

ーーたくさんの方に支えられて、何とか気持ちでは保っていたけれど、現に練習が出来ない。そしてMGC出場を時代するという。その日のことって覚えていますか?
内心、悔しい気持ちもあったんですけれど、でもこれは自分の不注意もありますし、自分の実力不足と思って、次に向けてやろうという思いで過ごしていました。

明かされる真実

ーーMGC辞退=東京オリンピックに出られない。
その現実を受け止めました。そこから引退の決意までの期間、どんな時間だったんですか?

元々本当に東京オリンピックで現役を最後にしようという思いが、ずっと高校生ぐらいからあって、理想では東京オリンピックでマラソンに出場をして、引退して、次のステップという思いがあったので。引退時期というのは自分の中で元々決まっていたので、その決められた時間の中で、途中で諦めるんじゃなく最後までやり切るという風に切り替えました。

ーーそもそもどうして、東京オリンピックで一線を引こうと?

元々、子どもたちと関わる仕事がしたいという思いがずっと高校生ぐらいからあって、25歳まで陸上競技を精一杯やって、そこから切り替えて、もう1つ、第2の夢に向かって頑張りたいと考えていたんです。アスリートとして生活してきた経験を活かして、幼児体育の分野で、色々なところに出向いて指導していくのも良いかなと思って。

ーーいずれにしても、子どもたちに関わっていきたいと。2024年のパリオリンピックの前の年には第2の人生をスタートさせるという(2023年に専門学校卒業予定)。すでに関根選手の第2の人生を応援されている方は、たくさんいらっしゃると思います。

故障を支えた1人のトレーナー

ーー辛い時期、リハビリで大変だった時に、支えて下さった沢山の方がいらっしゃると思います。その中のお一人から手紙を預かっておりまして、JISS(国立スポーツ科学センター)の高嶋直美トレーナー。まさに関根さんが。
故障してすぐ、1番自分の中でも整理がつかない時にお世話になって

ーー二人三脚で歩んできた方の1人だと思うんですけれど。「花ちゃんへ 花ちゃんならみんなに好かれる保育士さんになれると思います、第2の人生が笑顔いっぱいの明るく楽しいものになりますように。はなちゃん落ち着いたら一緒に走りたいです」高嶋。
高嶋さんはソフトテニスをやられていた方で、陸上とは関係のないところの話で気持ちを和ませて下さった。身体の面でも毎日毎日、治療して下さって。
当時は両親とも離れて暮らしていたので、近くで支えてくれる人がなかなかいなかったので、本当に頼りになりました。

ーーそんな多くの方に支えられながら過ごした、「短くも濃い陸上人生」一言で表すと、どんなものでした?
波乱の連続でした。

ーー未練はないですか?
はい、自分の中でやり切ったと思います。

ーー最後、色紙に目標とサインをいただければと思います。
本当に簡単な言葉なんですけれど。
「チャレンジ」。
現役の時も今も変わらずにどんどん新しことにチャレンジをして、次に、自分の糧にして繋げていきたい。

ーーその時々でチャレンジするものは違うかもしれないけれど、「根本の思い」は変わらないということですよね。陰ながら我々も応援させていただきますのでこれからもご活躍を期待しております。ありがとうございました。

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<【関根花観】私を強くしてくれた「一本の襷」【前編】>

<【関根花観】知られざる現役引退の真相【後編】>

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※この内容は、「一般社団法人陸上競技物語」の協力のもと、YouTubeで公開された動画を記事にしました。