特集2022.03.09

【陸上物語FILE 5 高尾憲司】 箱根が無理なら世界を目指す!

アスリートの生き様を尋ねて全国を回る「陸上物語」。 
5人目のゲストは旭化成で4度のニューイヤー駅伝優勝、アジア大会(1998年)で金メダルを獲得された高尾憲司さんです。現在は立命館大学にて中長距離選手のコーチをされています。「箱根が無理なら世界を目指そう!」と、選手に向き合う高尾コーチ。一体、どんなお話が伺えたのでしょうか?

選手の練習環境

ーーそれにしてものどかなところにありますね!

そうですよ!良いところでしょ!

ーーこういう環境って選手にとってどうですか?

周りを気にすることなく競技が出来る。
私は現役時代、旭化成でやっておりまして、宮崎県延岡市というのどかなところでやっておりましたので、そういう意味では、競技するのに集中できる所だと思います。

憧れの選手を追いかけて

ーー現役時代のお話から伺っていきたいのですが、まず陸上競技を始めたのはいつですか?

小学校5年生ぐらいからです。陸上競技というか、走り出したのはそれぐらい。
恥ずかしい話なんですけれど、勉強があまり得意な方ではなくて、どちらかと言ったら出来ない方でした。得意なこともなく、たまたま先輩が毎日走っている姿を見て、毎日私も練習をすれば速くなるのかな?というのがきっかけで、私も走り出しました。

ーーお生まれは京都府の今でいう京田辺市?

そうですね。

ーー小学校5年生の時に憧れた先輩って何歳くらい?

ちょうど1つ上かな。その方がマラソン大会で速かった。

ーー高尾さんも振り返ると運動会はお好きでしたか?

あんまり好きじゃなかったんですよ。
50m走も5年生ぐらいの時はまだ9秒台だった。

ーー決して速くはないですよね?

はい。

ーーその1人の先輩に憧れて走り出して?

毎朝走り出したんです。

ーーどの辺り走っていたんですか?

僕の家が京田辺市の中でも山奥で。同志社大学の裏の山の上なんですよ。
そこをずっとひたすら走った。

ーーちょっとした高山トレーニングじゃないですけれど、まさに自然の中で育まれたという。

そうですね。

ーーそれから中学校は地元の?

田辺中学校ですね。

ーー陸上部?

最初は野球部だったんですよ。桑原さん清原さんのKKコンビに憧れていたんで、自分もああいう風に目立つ存在になりたいなと。

ーー内心どこかで目立ちたいという気持ちは昔から?

そうですね、褒められたこともなかったですし、何かで1番になったことがあまりなかったので、何か自信になるものが欲しかった。

ーーそれって周りから言われたのか?自分から思ったのか?

自分からだと思います。
勉強も下から何番目か。
走るのも下から何番目か。
そんな状態だったので、何か自信を持つものが欲しかったんでしょうね。

ーー今は指導者ですけれど、それって簡単なことではないですよね?
多くの方が自分には何も取り柄はないと思って、そのまま歩んでいかれる気がする。

毎日走り出したことがきっかけです。
これはトレーニングの原理原則でもあります。
やっぱり継続すると速くなっていくんですよ。
特に長距離走は。そこで続けることの大事さであったり、続けていくことは自分を変えてくれる。
少しずつ気付いていったのかもしれないですね。

野球部から陸上部へ


ーー小学5年生からコツコツ毎日朝走り始めて、中学で最初は野球部に入ったけれど、陸上部に。

そうですね、僕体も小さかったし、野球ではなかなか難しいしで、仲の良かった友達が「陸上部に来ないか?」と、誘ってくれたんです。

ーー高校は一般入学で?

推薦で入っています。

ーーじゃあ、その時には地元では有名なランナー?

いや、あの、遅かったんですよ。
中学校の時も。
中学校の時も800m=2分10秒。
当時全国の女子の1番遅い子より遅かったので。

友人の死

ーーそんな高尾少年がどうして推薦で?

2年生の時に僕を陸上部に誘ってくれた友達がいて。
その子が一緒に駅伝大会を目指して地区の大会に勝とう!とやっていたんです。
けれど、たまたま2年生の時に僕を誘ってくれた友達がメンバーに入れなくて、1人3年生が入っていた。
その3年生が卒業すれば、3年生になったら全員一緒に目指せる。
でもそんな時、駅伝大会の帰りに、交通事故で友達が亡くなってしまったんです。
それがあって、その次の年は、その子の分まで頑張って府下大会まで行こう!としたら、自分が大ブレーキをして、行けなかった。
やり切れてないというか。
その子の分まで頑張れなかった悔いがありました。
強い高校でもう1回チャレンジしたいと、先生に「推薦してください!」と、お願いをして、なんとか入られたんです。
僕はそういったところが場面場面でいろんなことがあって、今も陸上競技に携わっているところかなと思います。

宇治高校で2度の都大路出場

ーーその亡くなった方は速かったんですか?

僕よりは速くなかったんですけれど、一緒にやれば何とか来年、次の年、一緒に府下大会を目指せるメンバーに入れる子だった。
事故のあったその日、帰る前にも「来年を目指して頑張ろう!」と、話をしていた。
その帰りに車にはねられてしまって、亡くなってしまったんです。

ーーなかなか気持ちを切り替えることは?

その時は人が亡くなるということも経験したことがなかったですし、明日はまた来るものだと思っていた。
でも、その時に思ったのは「生きているとチャレンジは出来る。命があれば何回でもやり直しが出来る」とにかく限界までやってやろう。

ーーその亡くなった仲間の親御さんも高尾さんのような方が活躍されていることを嬉しく思っていらっしゃるんでしょうね。

毎年実業団に入ってからは夏の帰省期間はいつも報告に行っていました。その時はすごく喜んでもらえました。

ーー自分1人でやってきた訳じゃないんですよね?
僕は、そういった所が場面場面でいろんなことがあって今も陸上競技に携わっている所かなと思います。

ーーそして宇治高校に進学をされて、宇治高校か洛南高校か。年の暮れの全国高校駅伝=都大路に出場するという強豪校の中で、1年、2年の時に2年連続で都大路を経験された。
小学生の頃50m=9秒台。中学校の時、女子より走るのが遅かった人が、辿り着くところじゃないと思うんですよ?

当時の宇治高校、今の立命館宇治高校ですけれど、女子は過去、全国高校駅伝の連続出場記録をずっと作っていますので(全32大会出場)女子はずっと強かったんですよ、圧倒的に。
僕は高校に入った時は女子より遅かったですし、よく練習も離れて、先生にも叱られていました。ただ、なぜ宇治高校に行ったかというと、陸上競技を強くなりたいという想いがあったので、練習も遅れていましたし、出来なかったんですけれども、その分は絶対誤魔化さず、きちっとゴールはする。
それプラス、帰りは走って家まで走っていました。山だったんで車でおよそ30分ぐらいかかるんですけれど、それをもう一回やっていました。

ーー1日でどれくらい走っていましたか?

朝学校に行って10km近く走っていたかな。
朝練でそれくらい走って、夕方も10kmから20km(多い時)。そこからまた10km近く走っていました。

ーー毎日フルマラソンを走っているくらい、、、?

足はパンパンでした。ただ、それは強制的にやらされているものではなくて、自分が強くなりたいと思ってやっていたので。

ーーそのモチベーションってなんだったんですか?

やっぱり強くなりたかったし、亡くなった友達の分まで頑張りたいという想いです。

大学のオファーを辞退

ーー大学からのオファーもあったと?それを蹴って?

関東の大学に決まっていました。
なので、最初は旭化成からの誘いを最初はお断りして。

ーーどうして?

若い時って目立ちたいじゃないですか。
旭化成のユニフォームって地味なんですよ。

ーー上が白に紺のパンツ?

そうそう、それが嫌だっただけ。(笑)

旭化成陸上部へ

ーーただそれだけですか?

そう。行かないと言う事を宗さんに言って、宗さんが自分の地元まで来てくれて。
「そう言いながらもお前、来るような気がするんだよな。」って言ってくれていました。
今でも宗さんとよくこの話をします。
で、たまたま千葉国際クロスカントリーがあって、そこで初めてJAPANのユニフォームを着られる!と思ったら、そこで全然ダメだったんです、やっぱり良い指導者の元でやらなければ。という想いがあって。
今でこそ箱根駅伝が強い時代ですので、良い指導者も大学に沢山いますけれど、実業団の方が当時は良い指導者が沢山いて、環境も良かったですし。
世界に行くのであれば、大学に行っている暇はない。勉強はいつでも出来るんで。

ーー結論、今そういう人生を送られている訳ですもんね?

そうですね。

夢を阻む怪我

ーー実業団に入ると、お正月のニューイヤー駅伝
これが1つの大きな存在意義を示す所だと思うんですが。その中でも優勝は4度でしたよね?
優勝に貢献されていて、本当に順風満帆と言える陸上人生。
ジュニアの時はことごとく日本記録を樹立されて、バンコクアジア大会(1998)男子10000m金メダル。
そして世界へ!といったところで、故障ですか?

そうですね、アキレス腱の故障をちょうどアジア大会が終わった後に。
ちょうどアジア大会の時が、年齢的に先輩の森下広一さん(バルセロナオリンピック男子マラソンの銀メダリスト)と全く同じ年齢でした。
森下さんはバルセロナオリンピックで銀メダルを獲られていましたから、それと同じように自分も行きたいという理想がありました。
アジア大会の金メダル、そして世界選手権へと。その通りにいくだろうと思っていた中での故障でした。

ーー周りに何も言わせない。日本選手権も獲ってアジアも獲って次は世界だというところで、、、。

ですね。いけるだろうと思ってやっていたんですけれど、故障に負けてしまったという感じです。

怪我との戦い

ーー右アキレス腱の故障はどういう?

アキレス腱の附着部です。
スピードランナーはよくそこを痛めます。

ーー手術を2度したんですよね、1度の手術で良くなってもう一度舞台に立つというイメージは?

あの、もちろん帰っては来れたんですよ、1回目の手術をした後。ただ、スパイクがもう履けなかった。
本当の勝負はもうで出来なかったかもしれないです。

ーー怪我はいつかあるかもという恐れは?

全くなかったですね。
今でこそ管理栄養士が当たり前のようにいますけれど、その当時から治療であったり栄養面だったりも、そういうものがなかった時代から自分でお金を払って管理栄養士をつけていたので。そんなことはないだろうと思っていたことが、急に起こった。
ただ今思うと、練習はやりすぎていました。

引退の決意

ーー2001年頃でしたっけ手術されたのが。
それから現役引退を決意されたのが2005年。
その4年間はどういう時間でしたか?

もちろん思うように出来なかったという想いがあります。
また、旭化成は駅伝では連覇をしていた時なんですけれど、自分が出なくなった年から負け続けたんです。
10何年間、そこから勝てなかったんです。
駅伝というのは自分の中でもこだわりはありましたので、そこをなんとかチームの為に頑張りたい。
個人としては世界と戦えなくなっても、駅伝ではチームとして戦っているので。ですが、なかなか足は上手く言うことを聞いてくれなかったのが事実ですね。

ーーそこから引退というのはどういうお気持ち?

僕、人から指図されるというか。こうしろああしろ言われるのが嫌で。
引退する時も宗さんから言われたんじゃなくて自分から「辞めます」って言ったんですね。
宗さんたちは「あと3、4年は出来るぞ」と、言ってくれたんですけど、自分の中では「これ以上やってもチームに貢献できない」というのもありましたので、自分で決意をして辞めたので。
そんなに辞めることに関して、後悔はなかったです。

現役引退後は大学生に

ーーその後、学生さんになられた?

そうですね。
最初は現役を終わる時に宗監督たちにも良くしてもらって、指導者の道も色々探してもらって「ここあるから行くか?」という話もありました。
けれど、高校時代から陸上一本しかやっていなかった。社会を知るためにも、そのまま指導者になるよりも、「一旦会社の業務をやりたいです」ということで、旭化成で生地作りの部門に入らせてもらい、ウェアを作る仕事をやりました。
「怪我をしないウェアを作りたい」というのが、頭にあったんです。
でも、その時に言われたのが「経験はあるけれど、専門的な知識はないじゃないか」と言われて。
だったら、学ぶしかないな。と、思ったんです。
そこで初めて『学ぶ』という、自分の中での『必要性』が出てきた。だとしたら、大学に行き「スポーツ科学を学ぼう」というのがスタート。

大学に行った当初は、スポーツというものを業務で必要になったんで、学ぼう!という形で行ったんですけれど、スポーツ化学を学ぶと教員免許が取れるので、教員免許を取りたいというのもあり、大学には毎日休むことなく通っていました。
あんなに勉強よくやったなと。
昔、中学高校なんて、学校を休むことしか考えていなかったのに!大学に行くようになってからは、休むこともなかったです。
今でも学生に言うのは、レジュメやレポートも含めて教科書も全部残してあるんですよ。
自分が学ぶ!と言う時が、一番勉強ができる時だと思います。

ーーやらされることでは伸びないですよね。好きこそ物の上手なれで。

必要だと思ったことは身に付きますよね。

日の丸ランナー博士に

ーー最近まで大学院生で?

そうですね。大学院に行っていました。やっと博士号が取れたので。

ーーおめでとうございます!博士号、これを取ることによってどう変わったんですか?

自分が現役に故障したことや「トレーニングでああしておけば良かった」ということを、ある程度見えて来たんです。
立命館大学に指導者としても来させてもらって、指導に行き始めてからまた新たなレベルが上がる度に「壁」が出来てきたんですよ。
そこでまた1つ学びたくなり、最初は修士課程の方に行き、ランニングに対しての研究をやっていたんですけれど、さらにより極めようと博士課程に。
気がついたら11年かけて大学院終わりました。

立命館大学陸上部コーチに

ーー立命館大学はどういうご縁で?

OBの方に、当時低迷している時だったので、「強くしてもらえないか?」と、お声があった。
ちょうどそのタイミングで大学も終わっていましたし、次のステージへ!と、なっていたので、チャンスをもらえました。

ーー謙遜はされると思うんですけれど、高尾コーチがチームに入ったことによって、流れが変わり始めている部分があると思う。

僕が変えている訳ではないと思う。
「誰が主役?」となったら、僕は「選手!」だと思う。
選手がやりたいこと、達成したいことを、自分が今まで学んできたことだったり、現場で経験したことだったり、スポーツ科学との融合だったり、そこを学生たちに伝えているだけ。それを彼たちが自分で必要と思ってやってきたことが、少しずつ強くなってきた。

指導者としての心得

ーー自分が必要と思ったことを取り入れる。つまり、自分にも責任がある?

そうですね。
酷い言い方かもしれないですけれど、例えば学生が走ったら勿論嬉しいんですけれど、学生が走れなくても、困るのは僕ら指導者ではない学生たちが結果を出さないと困る。「自分のためにやっている」というのを思わせる方が大事。

ーー練習メニューも自分で決める?

ある程度練習メニューは出すんですけれど。
でも僕の練習メニューって、週に2回しかやらないんです。

ーー当然、それだけじゃ足りないですよね?

足りないです。その間を自分たちでどうするかを考えさせる。
そして、この決められた練習メニューは高いパフォーマンスを発揮してもらうと決めている。「過負荷の原理」でトレーニングはある一定の強度以上を与えないといけない。
そこには必ず週に2回は決められた練習で結果を出してもらう。
その結果を出したことが、インカレであったりとか、予選会であったりとか、そういうところに選んでもらえるチャンスをもらえる。
そういったことを明確にしてあげて、それ以外は自分たちで考えさせている。「分からなければ聞きにくればいい」というスタンスです。

ーー陸上競技者のみならず、社会人になる上で、すごく大事なことですよね。

そうかもしれないですよね。
自分も陸上から離れて、旭化成で業務についた時も、分からなかったので、分からないことを聞くしかなかった。
そこで聞いて、得て、またそこで自分で成長していって、またそこから聞いて。の、繰り返しになるので。学生たちにも「分からないことを放っておくことが1番恥ずかしい」「出来ないことは恥ずかしいことではなくて、分からない事や出来ないことを放っておくことが恥ずかしい」と伝えています。

学生とのコミュニケーション

ーーそんな学生さんたち選手の皆さんも、高尾さんのことをすごく慕っていらっしゃるようで、
監督=怖いというような、古い考えかもしれないですけれど、ではない?

それはないですね。僕もゲーム好きですし、今だったら「プロ野球スピリッツ」というゲームをみんなでやっていますね。
学生とみんなで楽しくやるので、たまに学生が良い選手を獲ったら「パスワードを変えようか?」と言ったら、「それはパワハラですよ!」と言われます(笑)

ーー(笑)パワハラって言われているうちは大丈夫!

(笑)その話もしますけれど、本当に楽しくやっているので、合宿とかも一緒にこのコロナ禍になってからちょっと難しくて制限もあるのでできなかったですけれど。
コロナ禍前は一緒に広いトレーナー室でみんなで昼寝をして。
どちらかというと「壁」を作らないようにしています。

ーーご自身は結構、縦社会で生きてきたんじゃないですか?

僕はあまりそういうのは無かったかもしれないです。
上の方に可愛がってもらえたというか。どちらかと言うと僕から行く方だったので、「飯食わせてください!」とか(笑)あまり縦社会というのは無かったし、「壁」は良くないと思う。
言いたいことを言い合える方が良い。「仲良し」です。

ーーこれはもう色んなスタンスがある。
威厳のある監督やコーチが良いかもしれないけれど、選手との距離が近い方が選手の立場になると聞きやすいですよね。

そうですね。
それこそ昨日は卒業生が現役でやっている子なんですけれど、電話をしてきて「相談させてください」ということもあった。
言いにくい関係を作っても面白くないと思うんです。僕も気を使うのは嫌だし、気を遣われるのも嫌だから、やっぱりそういう中で、ケジメをつけるところはつけないといけないし、叱るときもありますけれど、そういう方が成長しますもん。お互いが。

箱根駅伝

ーー高尾さんも駅伝は出ていないじゃないですか、関西の大学に進学するということになると、デメリットメリットじゃないですけれど、「箱根駅伝が良い」と思っている人間にとってはデメリットじゃないですか。これに対しては?

学生が昔ポロっと言ったことがあって。
随分昔なんですけれど「高尾さん、僕たちは、箱根駅伝のところで闘えない選手たちだったんです。
高校時代にそこに相手にもされなかったし、そこにそもそも行ける人間でも無かった。だから仕方がなく、関西の大学、立命館大学にきたんです。」
そんな人間が関東の連中に勝てる訳がない!
それがすごく僕の心に刺さっていて。
だったら、「そいつらよりは遥か上の世界を目指せる選手になったらどうなの?」と。
そこを目指す為に、僕は研究と経験をうまく混ぜ合わせた指導法をやっているので、そこはうちの武器と思っている。

ーーご自身も高卒で世界を目指されて、あとちょっとのところで行けたという実績がまずありますし、選手たちもそんな方に教えてもらえるとなると、「ついていきます!」ってなると思う

どうでしょうね?その辺は学生に聞いてもらえたらなと思います。

パラアスリートの支援活動

ーー指導者としても大活躍されていますが、リオパラリンピックでは指導で行かれ、社会に貢献が出来ていると言えば大袈裟かもしれませんけれど、自分を新たな目線で見られるのも。

僕もパラアスリートに関わったのはここに来てから。
当初ここで総監督をされていた芝田徳造先生が、障害者スポーツにとても熱意のある先生だったので、そういった影響もあって資格を取ったんです。
例えば卓球であったら、口で卓球のラリーをされる方もいる。
それがとても上手いんです。僕がやっても負けるんです。スポーツを楽しむという部分で、チャレンジをする工夫を見た時に、自分が情けなくなって。
それこそ今、関東の箱根と関西とのギャップ箱根を良いなと思ったこともあった。
でもそれを考えても、僕らには箱根が無いわけです。
今与えられている環境の中でどれだけチャレンジをするか。
パラアスリートを見て、僕は指導者として変われました。
学生たちにもそういった環境を見てもらうことで、変わるというのがあると思ったので、活動を週に1回、ここでずっと練習会をやって、一緒に成長する。というのをやっているんです。
きっかけがあって、パラアスリートの支援活動をやっていますが、学生たちも変わっていにますし、自分も変われるし、パラアスリートも成長していける。
みんなが成長出来るというのが本当にハッピーなので、活動を続けています。

大切にしている言葉

Blloming、開花する。
僕にはランニングしかないので、ランニングを通じて開花してきたというのもあるのでこれからもランニングを通じて花を咲かせられたらいいなと考えています。

各種SNSなどの情報はこちら

高尾憲司(立命館大学陸上競技部・中長距離コーチ)についてはこちら!

Twitter
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立命館大学陸上競技部HP
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<【高尾憲司】亡き友に捧ぐ金メダル【前編】>

<【高尾憲司】「箱根」が無理なら「世界」を目指そう【後編】>

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※この内容は、「一般社団法人陸上競技物語」の協力のもと、YouTubeで公開された動画を記事にしました。