名古屋市に住むプロボクサーの村井貴裕(むらい・たかひろ)選手30歳。
17歳でプロデビューし、22歳のときにライトフライ級で日本ランキング10位になった実力者です。ただ、26歳のときに「急性ストレス障害」を発症。一度は引退を決意します。しかし、ボクシングの世界こそが自分の生きる道だと、今年(2021年)から再びプロの世界に戻りました。辛い過去を乗り越えた「自分にしかできないこと」をこれからはやっていきたいと話す村井さん。その真意を聞きました。
※1991年10月5日生まれ
目次
ライトフライ級で日本ランキング10位になったプロボクサー
村井貴裕選手は、名古屋市を拠点に活動しているプロボクサーです。15歳からボクシングを始め、17歳でプロデビュー。ここぞというときに決める左フックが持ち味です。
22歳のときにライトフライ級で日本ランキング10位になりました。今はプロボクサーとして活動しながら、リングの上だけでなく、社会で戦い続ける起業家になろうと勉強を始めています。
「人生の歯車が一度狂うとなかなか立ち直れない人は多いと思います。そういった人たちに『もう一度立ち向かう勇気』を持ってもらえるような福祉のサービスをいつか作りたいんです」
流されず立ち向かう生き方をボクシングが教えてくれた
大阪府守口市出身の村井さんの幼少期は壮絶でした。
母親は結婚と離婚を繰り返し、2つ上の兄とは父親が違います。
心の弱さから、母親は10代の頃に覚醒剤を使用。立ち直ってからは必死で夜はスナックで働き、村井さんたちを育てました。
経済的に貧しく、家族揃って食事をしたことは一度もありません。
「コンビニで兄とおかずを買っていたんですが、それが嫌でした。もっと美味しいものが食べたいと5歳のときから包丁を握って、レシピ本を開いていましたね。子どもの頃は生きるのが辛かった。手間暇かけて作ったご飯にも愛情にも飢えていました」
中学時代には周りに流され、不良と関わるようになりました。
学校に行かず、公園で集まったり、悪さばかりを繰り返す日々。
先輩からしばかれ怪我をして帰る日もあったそうです。
15歳の時に中途半端な自分を変えたくて地元のボクシングジムに入りました。
このボクシングとの出会いが、村井さんの人生を変えます。
ジムに入るとすぐに頭角を現すようになった村井さん。
プロボクサーになれる17歳でプロテストに合格。プロになってからはもう一度勉強がしたいと通信制の高校に通い、20歳で卒業しました。
「ボクシングは好きではなかった。でも、夢中になれたことで、人生が変わりました。ボクシングがなかったら、少年院や反社会的勢力に行っていたかもしれない。ボクシングと出会ったから、流される人生ではなく、まっとうに生き、社会で戦いたいと考えるようになったんです」
プロボクシングは厳しい世界で、世界チャンピオンにならないとボクシングだけで生計を立てるのは困難だといわれています。世界チャンピオンになるためには、まずプロ試験に合格し、C級、B級、A級と順に昇格しなければなりません。日本ランカーに勝ってランキング入りし、さらに日本ランキングを上げて1位になって初めて日本チャンピオンと対戦できます。そこで勝つと日本チャンピオンになり、ようやく世界ランキング入り。そこでまた世界ランキングを上げれば、世界チャンピオンと対戦できるチャンスをつかめます。ここで勝てば、ようやく世界チャンピオンになれるという長い道のりです。
人生で初めて立てた目標は「世界チャンピオン」になること。
毎朝8キロのランニングを行ない、日中はアルバイトに従事。午後6時から10時までジムで練習を続けました。2010年度に西日本ライトフライ級新人王のタイトルを獲得。赤井英和さんや井岡弘樹さんを輩出した名門「グリーンツダボクシングジム」に移籍すると、移籍後の22歳のときに日本ランカーに挑戦し、日本ランキング10位になりました。
「プロボクサーになってリングの上で僕が頑張っている姿を見て、たくさんの人が泣いてくれたんです。中でも母が本気で泣いてくれて、愛情を感じられた。それがあったから頑張れました。子どもの頃は辛かったけれど、今思えば、母なりに一生懸命だったとわかるようになりました」
「急性ストレス障害」を発症。9年間続けたボクシング引退することに
「勝ちたい」という気持ちが日本ランカーになってからより強くなった村井さん。ボクシングを「痛いから怖い」とは思ったことがないのに、「負けるのが怖い」と強く思うようになりました。早く日本ランキングを上げたいのに、大事な試合で負けてしまう。そんな村井さんに突然病魔が襲います。2017年7月の26歳のとき、スパーリング後に倒れ、意識を無くしました。理性を失い、暴れ、救急車で病院をたらい回しにされ、気がついたときには病室のベッドの上にいたのです。診断された病名は「急性ストレス障害」。入院中手足はずっと拘束されたまま。トイレにも行けず、食事のときだけ手枷が外されました。1か月半で退院するも、知人からは薬物中毒を疑うような心ない言葉を掛けられることもあったそうです。退院後の復帰戦に挑むも敗れ、9年間続けたボクシングを引退しようと決意しました。
「今思えば22歳から26歳の倒れるまで、うつ状態だったんだと思います。世界チャンピオンを目指していたのに、僕は10位で何しているんだろうと思っていて。大事な試合のときこそ勝てなくて。自分にプレッシャーをかけた積み重ねが、あの日に弾けました。
僕はあの日に一度死んだと思いました。だから一皮剥けて、もうきっとうつ病にはならないと思ったんです。復帰戦が決まって、負けない。やってやるぞと。でも勝てなかった。あれだけ自信があったのに。これは引き際だと思いました」
反骨精神で売り上げ全国1位の営業マンに。忘れられなかったボクシングへの想い
引退後、26歳にして初めての就職活動。戸惑いの連続でした。
履歴書の書き方がわからず、携帯で漢字や書き方を調べました。企業に提出した履歴書の数は何十枚にも上ります。しかし、なかなか面接にたどり着きませんでした。唯一、大手不動産の営業職にプロボクサーとしての根性を買われ、面接の機会を得たのです。
「面接時に『プロボクサーのプライド捨てられるのか』とか『上司は年下の大学卒業した人ばかりでもやっていけるのか』と言われたんです。けれど、「数字でやり返します」と答え、採用されました。」
就職を機に名古屋に引っ越した村井さん。初めてのサラリーマン生活、初めての一人暮らし。パソコンの使い方や営業のノウハウも全くわからないままの不安なスタートを切りましたが、意外にもボクサー時代のハングリー精神が営業職に通じていました。
「周りが持っていたマニュアルや看板を僕は一切使わず、名刺だけを手に声をかけていました。
足を止めてくれたら、『僕こういう者なんです』と、プロボクサーだった話をしていました。ボクサー時代に自分を売り込んでチケットを買ってもらっていたので、相手の懐に入ってチケットを売っていた経験が生きたんです。正社員に採用された1年目に、3か月で13人にマンションを買ってもらい、全国売り上げ1位になりました。でも、同期の中で一番早く出世してマネージャーになりましたが、心燃えるものがなかったんです。ファンの方々に本気で応援してもらうボクシングの興奮が忘れられなかったんですね。人生に悩んでいたら何人もの人に『村井くん、もう一度ボクシングしたほうが自分のやりたいことが見えるんじゃない?』と言われ、復帰しようと思いました。そして、2021年の1月、サラリーマンを辞めました」
社会と戦い続けられるよう、今度は自分が誰かの背中を押したい
退職してからは、名古屋にあるボクシングジムを拠点に再起。
70キロあった体重を、55.3キロのスーパーバンダム級まで減量。
毎日午後6時から22時まで練習するようになりました。朝7時に起きて1時間、8キロから10キロ走ることを日課にしています。
また、プロボクサーとして活動をしながら、社会の中で役に立ちたいと、福祉の分野に興味を持つようになりました。
名古屋市にある障害者就労支援センター(刺しゅう工房Joint’boNPO法人夢んぼ)で、家庭で飲めるグリーンコーヒーと特製の缶バッジを一緒に作り、WEB上で販売を始めました。
さらに、村井さん自身も福祉事業所でアルバイトをしながら、ヘルパー2級の資格の取得に向けて、勉強を始めたのです。
また、村井さんのボクサーとして活躍する姿を応援したいと、
母親は地元の人たちに声をかけて、募金を集い、障害者就労支援センターで、村井さんが試合の入場時に着るTシャツを作ってもらうことにしました。Tシャツの表と裏には総勢50人のファンの名前が書かれています。
「母親は凄いんです。僕が頑張っている姿をとても喜んでくれて、Tシャツ作ろうかと言ってくれました。必死になって応援してくれています。僕が変われたから、母も変われた。未来に一緒に夢を持ってくれるようになりました。僕は道を外した人には、必ず何か大変な理由があると思っています。応援してくれている全ての人に感謝しています。特に両親には、産んでくれてありがとうと伝えたいです」
今年の3月21日の復帰戦、忘れられない出来事が起きました。
相手が怪我をし、試合は中止になりましたが、試合会場で行われたスパーリングでのことです。会場にいた20代の女性が「うつ病を患っている」と突然打ち明けたのです。村井さんは勇気づけようと、特製の缶バッジを手渡し、励ましました。すると翌日、その缶バッジの写真と共に「仕事に行きます!」と、メールが送られてきたのです。村井さんの頑張りが、誰かの背中を押しているんだと実感した出来事でした。
「心に残る出来事でした。もし悩んでいる人がいたら、『みんながみんな、同じ生き方をしなくていい』と、励ましたい。僕はプロボクサーとして現役で戦いながら、福祉の勉強を続けて起業したいと考えています。今度は僕が誰かの背中を押す番だと思っています」
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