特集2022.07.15

【陸上物語FILE 15 猫ひろし】 芸人封印!オリンピック選手としての生き様

今回のゲストはオリンピアンであり、お笑いタレントの猫ひろしさんです。カンボジア国籍に変え、幾多の困難を乗り越えた先に、見事、男子マラソンカンボジア代表として、2016年リオデジャネイロオリンピック出場への切符を掴みました。紆余曲折の陸上人生を軽妙に話してくださった、猫さん。陸上物語だけでしか見られない?!猫さんのカンボジアギャグも必見だニャー!

番組初“外国人ランナー”

ーー本日のゲストは2016年リオオリンピック、マラソン競技カンボジア代表の猫ひろしさんこと、瀧崎邦明さんです!

よろしくお願いします!カンボジアから長期来日中の”外国人タレント”、猫ひろしです!ニャー!

ーー冒頭からニャー!をいただきました!(笑)
今日はランナー、そしてオリンピック選手としての猫ひろしさんについてお聞きしていこうかと思います。

ありがとうございます。いろいろ、(陸上物語の)過去の動画を見させていただいて、「なんで僕にきたのかな?」と思いまして…。

下関海響マラソンの丸秘裏話

ーーいやいや、れっきとしたオリンピアン!まさに先日(2021年11月7日)の下関海響マラソン、素晴らしいタイムで(2時間30分08秒)!

ありがとうございます。自身のコースベスト(2時間30分08秒)が出まして。2年前が2時間33分30秒で、その時の自身のコースベストでしたが、今回はそれより3分縮めて。やりました、44歳!

ーーすごい!聞くところによると点滴をされて臨んだとか?

そうですね。前々日ですかね、大会が日曜日だったのですが、水曜日の夜からなぜか知恵熱が出まして。もちろんこういう時期なので、全部検査をしました。ですが、陰性だったんです。一応、点滴をしたら回復するかな?と思ってたんですが…。当日の朝、アップしたら、やっぱり調子悪いなと思って。大会関係者の方には、最悪途中で辞めるか、ゆっくりファンランでやらせてもらいますと伝えて、スタートしました。ですが、1kmを3分30秒で行ってみようと思ったら、意外といけちゃって。そのままゴールまで走っちゃいました。

ーーええ!?考えられない…!

点滴の中に別のものが入っていた?!(笑)

ーーダメです、ダメです(笑)。ご自身のポテンシャルは、まだまだ伸び続けている?

僕のレベルで(伸び続けている)。低いですけれども。
よく言われるんですよ、同じくらいの年齢の男性から、「猫さん、オヤジの鏡ですよ」って(笑)。

ーーそうですよ!

「オヤジの鏡ってなんだよ!」って思いますけど(笑)。でも、そういうふうに言われるので。みんなが僕の走り姿を見て、頑張ってもらえたらと思います。

瀧崎邦明の少年時代

ーー本当に市民ランナーの鏡であり、皆さんの目標であると思います。ご覧いただいている皆さん、猫さんのファンの方が多いと思いますが…。いつもYouTubeとかでも、いろんなランニング企画をやられていますが、今日はまさに、猫さんの陸上物語を紐解いていこうということで。まずは瀧崎邦明少年、小学生の頃はどんなお子さんだったんでしょうか?

すいませんね、猫ひろしと全く関係のない名前で(笑)。「文豪みたいな名前」と言われますが、幼い頃からとにかく小さくて。

ーー身長はどれくらいでしたか?

もう、米粒くらいじゃないですか(笑)。

そんなことないでしょ(笑)。昔話の登場人物でも、もうちょっとありますよ(笑)。

常に列の先頭でしたね。2番目以降に並べるのも、3日間くらいですね。4日目くらいで抜かされて、また先頭になって(笑)。まあ、とにかく落ち着きのない子でした。

上に兄貴がいたので、お兄ちゃんがやることを全部真似して。お兄ちゃんがサッカーをやっていたから、サッカー部に入って。

ーーそうだったんですね。

中学校・高校時代は兄貴が卓球をやっていたから、卓球部に入る感じで。でも、一度やったら真面目にやっていましたね。まさに、”猫まっしぐら”じゃないですけれど、サッカーもちゃんと小学校まではやり切ったし、中学校・高校と6年間卓球をやって。とにかくまっしぐら。幼稚園の時も赤ウインナーが大好きだったんですね。幼稚園の頃の作文が残っていて、読んでみたら、「僕は将来、大好きな赤ウインナーになる」って。

ーーその時の思いが、今日の赤Tシャツにあらわれている。

違うわ(笑)!

ーー猫さんってこういう感じでツッコんでくださるんですね(笑)。話を戻して…赤ウインナーになりたかったけれど?

それくらい真面目というか。一つのことに集中しちゃう、そういう子でしたね。

稲中卓球部世代

ーー中高6年間卓球をやるというと、そこそこの時間を費やしたと思いますが、卓球の成績については記憶にございますか?

いやあ、ロクなもんではないですね(笑)。
当時、漫画の”稲中卓球部”が流行っていて。今は卓球と言えば素晴らしい選手がいらっしゃって盛り上がっていて、オリンピックでも大活躍をされていますけど、当時はまだプロもなかったので。とにかく、その漫画が大好きだったんですよね。

ーギャグ漫画ですよね?

「稲中!稲中!」って言われて(笑)。ラケットを振りながら、大事な学生生活を棒に振っていましたね(笑)。

走る猫のルーツ

(通っていた学校は)暗い中学校・高校でしたね。
ただ、その中でも、校内マラソン大会というのがあるったんですよね。しかも、陸上部とかよりいつも速くて、1位だったんですよ。

ーーえええ?

練習をしていなかったんですけれど、走るのは比較的、速かったんですよ。小さい高校だったからというのもあると思いますが。

ーー子どもの時から落ち着きがなかったとおっしゃっていましたが、よく走り回っていたとか?

そうですね。

ーーどれくらい走っていたんですか?

田舎に住んでいたので、近くの駅とかもなくて。移動する時は3〜4キロはみんなで走って。お菓子を買いに行ったりとか…。

ーー知らないうちに基礎体力をつけていたんでしょうか。そうじゃないと、44歳になってフルマラソンを2時間30分で走れないですもんね。

体を動かすことが大好きな子どもだったことは、確かですね。

ーー校内のマラソンで陸上部の人間より速いとわかった時、陸上部に入ろうかとは思わなかったんでしょうか?

ずっと卓球を続けると決めていたので、入部しようとは思いませんでしたが、陸上部から当然声がかかって。「記録会に出てよ、進路にも良い意味で響くぞ!」って言われて(笑)。僕は学業が良くなかったので、「じゃあそれだったらやってやるか」と(笑)。

忘れられない記録会

僕の中では「大きな山が動いた」という感覚で、千葉県の記録会に参加することになったわけですね。競技場に行って、市立船橋高校や八千代松蔭高校も参加していて、みんなランニングパンツ、ランニングシャツなのに、僕だけ学校のネームが入った「3年F組瀧崎」と書いてあって。下はオールスターのスニーカーですよ、僕1人だけ。めっちゃ恥ずかしかった(笑)。それで臨んだんですよ!練習もしないで、一夜漬けみたいな感じで。当然勝てないですよね(笑)。普通に走っても勝てないのに。

ーー何の種目に出場されたんですか?

1500mでした。もう決まっていたんですよね、種目が。みんなものすごく速くて、でも頑張ろうと思ったて。周回コースなので、後輩が一応数えてくれてたんですけれど、後輩がちょっと同じバカで、数え間違えちゃった(笑)。もう終わりだと思ったら、もう1周あって、「先輩もう1周ありました!」って(笑)。そこからペースがガタガタになって、こけたやつに負けた(笑)。吐き捨てるように「二度とやらない!」って言って。恥ずかしい思い出ですね(笑)。

アグネスが非常勤の大学へ

ーーそこから陸上や大会出場っていうのは?

一切ないです(笑)。大学に入ってからは、お笑いが好きだったので、お笑いライブとかをよく見に行っていて。サークルとかにも入っていないものでしたから、運動は一切していないです。

ーー進んだのは目白大学。人文学がご専攻?

人文学部言語文学科っていう…入った自分もよく分からない(笑)。最近、学校の要綱を見たら、その科が無くなってましたね。

ーーそこで何を勉強されたんですか?

コミュニケーション論とか。非常勤講師にアグネス・チャンさんがいらっしゃって。夏だけ教えに来てくださったんです、1日5時間くらいのマスを使って。だけどアグネス・チャンさんがカタコトなんで、コミュニケーションが取れない(笑)。すごく不思議な授業でしたね。

ーーいろんな国の人とコミュニケーションをとるという、そういう意味合いがあったのかもしれないですね(笑)。

鮮烈!芸能界デビュー!

ーー芸人デビューが2001年。これはどういったきっかけで?

お笑いがすごく好きで。大学3年生ぐらいの時にオーディションを受けました。普通に就職をすることはあまり考えてなかったので、地元の友達を誘って「ちょっと行ってみようよ」と。それがきっかけでしたね。それで受かって、その時、大学4年生。卒業してからのデビューはダメだと言われたので、卒業式の日に卒業式に行かないでそれに出たんです。

ーー人生を賭けるぐらいの思いで?

そうですね。すごく楽しみでしょうがなかった。

ーー最初はどんな芸風でしたか?

最初は漫談をやっていたんです。相方は普通の人だったので「やりたくない」って言われて。だったら、コンビを探すのは大変だから、1人でやったほうがいいなと思って。そうしたら、先輩から「それは漫談じゃない」って言われて(笑)。早口になっちゃうから。「それは漫談じゃなくてただの早口の人だ」って(笑)。でも、コンテストが明日だから「お前、せっかく面白い顔と体しているんだから、全裸で出ろ!」って言われたんですよ。

ーー全裸芸人?

はい、全裸で。嫌でしたよ!大学まで行かせてもらって、4年間、自分なりにお笑いも勉強して、なんで裸で出ないといけないのって(笑)。でも「明日コンテストなんだから、それぐらいやれ!」って言われて。でも後から考えると、舞台度胸をつけろということ意味だったのかもしれませんね。こっちも「やってやるよ!」と思って、全裸で出て行ったんですよ。

ーー本当に!?

はい。すごくウケて、優勝したんですよ。優勝賞金10円!(笑)。

ーー(笑)。

僕の初任給、10円。そこの支配人が来て、笑っていたんですけれど、オーディションが昼間だったんですよね。「猫ひろし!面白いんだけどね、昼間から全裸はだめ!」って言われて、出入り禁止になっちゃって。

ーー(笑)。優勝者が出入り禁止になっちゃうって。
後にも先にもそうないんじゃないですか?

僕が全裸でやったからその後、先輩たちもマイクとか使えなくなっちゃった。漫才をマイクなしでやらされた。「音響設備とかナシだ!」って(笑)。

ーー大変な思いをしましたね(笑)。

最初からいばらの道でしたよ(笑)。

人生を変えた“感謝祭”

ーーそんな鮮烈なデビューを経験されて、どこで陸上との出会いがあったんですか?

ずっと陸上をやっていなかったんですが、先輩たちと一緒にやっていたお笑い集団がなくなっちゃったんですよね。ネタ見せに行って受かったところが、ワハハ本舗で。ワハハ本舗に入ってからは番組出演とかのチャンスがやってきて。運良く、テレビに出られるようになりまして、「オールスター感謝祭(TBSテレビ)」の出演が決まったんです。芸人があの中で見せ場をつくろうと思ったら、」子どもの頃から見ていた「赤坂5丁目ミニマラソン」ですよね。ここでかましてやろう!と思って。

ーーそれこそ、千葉の高校の記録会以来?!

そうです(笑)。当時、深夜番組などでネタをやらせてもらっていましたが、大体「昇竜拳!」「ラッセラーラッセラー」みたいな一発ギャグなので、多くても2分間だったんですね。でもミニマラソンだと、ずっと1位を取っておけば、5分くらいはカメラに抜かれるじゃないですか。だからものすごく真面目に走ってやろう!と思って。

ーー最初の挑戦の結果は?

大活躍でしたね。

ーーいきなり?!

はい。でも1位は取れなかったんですよ。

ーーその時の1位は?

エリック・ワイナイナ。彼、シドニーオリンピック銀メダリストなんですよ。アトランタオリンピックでも銅メダル獲得。勝てるわけないですよ!(笑)。
「いつもギャグばっかりやっている猫ひろしが、一切ギャグをやらないで真面目な顔で走っている」というのが逆に面白かったみたいで。マラソン番組とか、地方のマラソン大会の方からオファーを頂きまして、仕事が広がっていきました。

谷川真理さんに叱られて

でも、今思うと真面目にやっていなかったんですよ。ちょっとだけ自信もあるものだから、一夜漬けじゃないですけれど…前日ちょっと走って、大会にゲストで走らせてもらって。そうすると、ゴール付近のラストスパートで自分よりはるか上の年齢の方とかに、抜かされるんですよね。今までそんなことなかったから、「なんでだろう」と思って。そうしたら、谷川真理さんに怒られて。「マラソン舐めないで」って。仲良かったんですけれど、叱っていただいて。「みんな真面目にやっているんだから。猫ちゃんも真面目にやったほうが良いよ」と言われて。谷川さんは当時ジムを経営されていたので、「良かったら来たら?」と。そうしたら、そこに谷川さんを育てた中島進さんというコーチがいらっしゃって。市民ランナーを育てたら右にでる人はいない、中島さんがずっと僕のことをコーチングしてくださって。今もずっと。国籍が変わっても15、6年お世話になっています。それではまっちゃったんですよね、マラソンに。真面目にやればやっただけ、マラソンはタイムに現れるから。それが楽しくなっちゃった。

ホリエモンのすすめ

ーーご結婚をされたのが?

僕が、30歳の時ですね。

ーーオリンピックに挑戦しようと思われたのはいつ頃からですか?

2010年ぐらいですかね。

ーー2012年のロンドンオリンピックの直前くらいに考え始められたということですよね?

そうですね。

ーー2012年ロンドンオリンピックを目指されたきっかけは?

ちょうど、インターネットで堀江貴文さんが番組をやられていたんですね。堀江さんに一発屋の芸人や起業家とかが悩みを相談して、答えてもらうような番組で。僕もそれにゲストに出たんですよ。「猫ひろし再生計画」っていうタイトルで(笑)。

ーー1回死んだみたいになっていますね(笑)。

本当ですよ、あの野郎!…と言いたいところですが、実際にお会いすると本当にすごく良い方で。
僕は1回限りのゲストだったので、当然向こうも冗談で言っている節もあると思うんですが、30個ぐらい案を出してくださって。例えば、「東国原さんみたいに選挙に出て有名になる」とか。「堀江さんに勉強を教えてもらいながら1年半ぐらい勉強をし、東大に入って話題を作る」みたいな中に、「足が速いから、国籍を変えてオリンピックに出るのはどう?」という案があって。堀江さんも当然冗談で言っているんですが、僕はそれを聞いた時に、絵が浮かんだんですよね。

オリンピックのスタート地点で、足の速いアフリカ勢の選手がいる中で、僕がこの「猫魂」のTシャツで星柄のパンツを履いて、スタートラインに立っている。真顔でいればいるほど、面白いなと。その時に、
「やります!」って言ったんです。映像も残っているんですけれど、みんな笑って誰も本気にしていなかったですね。

ーーカンボジアを選んだのには何か理由があったんですか?

堀江さんが色々と調べてくれて、「カンボジアだったら、そんなに速い選手がいないから」って(笑)。本当にささやかな理由です。嘘をついてもしょうがないんで(笑)。

猫、カンボジア人になる

ーーその時は既に奥様もいらっしゃったんですか?

はい。

ーーお子さんが生まれた直後に国籍を変えたとお聞きしていますが、奥様はそのことについて何とおっしゃっていましたか?

僕が国籍を変えたのが2011年の10月で、娘が生まれたのが2011年の2月11日。日本の建国記念日に誕生しました(笑)。妻と約束をしていたのが、妻と娘は日本人のままでいることと、僕が単身でカンボジアに行くということ。そして、人に疑われるようなせこいことはせず、ちゃんと成績を出して、オリンピックを勝ち取ること(笑)。もう、それだけですね、正々堂々と戦ってこいと。そうしたら応援すると言ってくれました。

ーー素敵な奥様ですね。

(妻は)大変だったと思います。子どもが生まれてすぐに、僕がカンボジアに行っちゃったんで。なので、子どもがつかまり立ちするのとか見ていないんですよね。スカイプでやり取りをしていたら、子どもがいつの間にか立っていたんですよ。「立ってる!」とか言って(笑)。

ーー父親としては1番可愛い時に見ていたいけれど、カンボジアに行くと決めたからには、それ相応の気持ちがおありだったと思います。はっきり言って、この決断は、仕事の一部という気持ちですか?それとも生きがいですか?

「とにかくやってやろう」という気持ちはありました。というのも、2010年くらいに番組に出てから、1年半ほど宙ぶらりんな感じがあったんです。カンボジアに興味があったので、とりあえずカンボジアの大会に出たり、プライベートでも何度も行ってみたり。カンボジアに堀江さんのスタッフの方がいらっしゃって、ゲストハウスをやっていたんです。その人が「猫さん、そんなにカンボジアが気になるなら、カンボジアにプライベートで来て、それから考えれば良いじゃないですか。」と言ってくださったんです。何度もカンボジアに行ったんですが、やっぱり国籍を変えることは大変なことだし。きっかけは「オリンピックに出たいから」という理由ですが、色々と言われるのは分かっているし…。

ーー「いろいろと言われる」というのは、批判の部分ですか?

もちろん。とりあえず、長期で考えようと思っていたら、どんどん僕のタイムも速くなっていって。その様子を見ていたスタッフさんに「猫さん、このままずるずるやってもしょうがないので、2010年の年末にカンボジアでアンコールワット国際ハーフマラソンがあるから、その大会で3位になったらやりませんか?」と言われて。そこで、「まあ、そうだな」と。
このまま、ずるずるやっててもしょうがないんで、日本人として、そのレースに出ました。そこで一生懸命走ったら、3位になれたんですよ。表彰台に立てたので、約束通り、腹をくくりました。「これは何かあるんじゃないかな?」とも思って。真面目にやってみて決まったことだったし、「これはもうやろう!」と思って、そこで決心をしたんですよね。人になんて言われようと、絶対にやってやろうと。カンボジアのオリンピック委員会の人とも接触して、国籍を取る方向に動き始めました。

ーーカンボジアの国籍を取るとなると、言語などの勉強は?

もちろん、今も勉強しているんですけれど。その時はスポーツ推薦で取得という流れだったので、そこまで厳しいテストなどはありませんでした。カンボジアオリンピック委員会の1番偉い方とかは、すごく喜んでくださって。カンボジアから見たら日本は大国のように思えるみたいで…。「そんな日本人が国籍を変えてまで、カンボジア代表としてオリンピックを目指そうとしてくれるなら」と受け入れてくれました。その人は歓迎してくれても、選手とか周りの人たちはどうか分からない部分というのはありましたけど。

ーーその辺のプレッシャーとかはありましたか?

いや、でもちゃんとタイムを出していたので僕が他の選手より遅かったらオリンピックには行けないわけだし。国籍を変えたとしても行けるわけじゃないので、
ちゃんと記録を出そうという風に決めていましたので、そういった部分でのプレッシャーはありませんでした。

幻のロンドンオリンピック

ーー2012年の大分の別府マラソン。当時のカンボジアランキング1位の方のタイムを上回るタイムで、名実共にカンボジア1位になったわけですね。

取ったんですよ、自己ベストを7分更新して(2時間30分26秒)。

ーーそこで、2012年のロンドンオリンピック
出場が見えてきた?

というか、もう決定ですよね。1位なんで。

ーーでも、結果的にいうと出られなかった…。

はい。決まった後に、出られなかったんです。

ーーそれはどういった理由で?

僕がカンボジア人になってから、新しい規則ができて。「国籍を変えてから住居年数が1年を満たない人はオリンピックに出られない」という…。

ーー猫さんがカンボジア人になった後に決まった?

そうです。聞いてないよ!ですよね(笑)。卓球競技とかで、国籍を変えて出る人がいたみたいで。そういうのを抑えるために、作られた規則だと聞きましたが…。上から言われていることだし、変えられないですよね。正直、もう、何も考えられないというか…。でも、そうやって言われているわけですし、しょうがない。従うしかなかったですよね。

ーーどんな大会でもガイドというものがあるから、そういうルールになってしまったら仕方がない、と。

そうですね。当時は「猫が罠にひっかかった」と言われました(笑)。でも、自分としては「なんでその規則が出来たのか」とかは関係なくて。そういう風になっちゃったなら、もうしょうがない。切り替えようと思いました。

大好きなマラソンだから

ーー国籍を変えてまで、オリンピックに懸けたけれど?

その時、確か34歳だったんです。選手としては難しい時期じゃないですか。僕自身、4年後とかも分からないし。ポカーンってなってしまって、変な感じ。(出場が)ダメになった日に、悔しくて、仲の良い後輩を誘って、自転車で伴走してもらって、深夜に40km走ったんですよ。「40km走るんだったらいってくださいよ!」後輩に怒られましたけど(笑)。

ーーそうですよね(笑)。

「お尻が痛くなりました!」って言われて(笑)。でも、その時にいろいろとリラックスしながら話していて、オリンピック出場を目指したことが、僕の人生を変えてくれたことにあらためて気づいたんです。なので、マラソンを辞めるのは絶対に違う、と。絶対に、マラソンはやり続けようと思って。ロンドンオリンピックを目指していた頃は1日に30kmくらい走っていたけれど、1日31kmに増やしたんです。1㎞増やすだけでも、年間365km違いますから、これを4年間ずっと、雨の日も雪の日も、やり続けたんですよ。そうしたら、4年間ずっとカンボジア1位でした。当時、「4年後は分からないです」って言っていたけれど、ずっと1位なわけだし。「これは(リオオリンピック出場を)狙えるんじゃないか」と思って。もう1度やってみよう、と。

悲願のリオオリンピック出場

ーーマラソンというスポーツとの出会いに感謝し、そのスポーツを裏切らないという気持ちで挑まれたわけですね。リオオリンピック出場の切符を掴んだ時、どんな思いでしたか?

カンボジア代表の1枠を勝ち取ったということで、他の選手はオリンピックに行けない訳ですよね。そんな大事な1枠を走らせてもらうということで、とにかく怪我をしちゃダメだなと。決まってから出場までの間、それが1番のプレッシャーでした。

ーー1人しかいないんですもんね。日本だと補欠という概念などもありますが。

なので、出場までの約3ヶ月は、絶対に怪我をしないで、ベストなコンディションでスタート出来るようにしていました。

ーー当日、スタートラインに立った時の気持ちは?

気持ち良かったですね。「あぁ来たな」という感じ。
変な興奮状態でした。

ーーしっかりと完走されて、記録も残された。

僕だけですよね、「完走」であんなにニュースになったのは(笑)。

ーー世界のトップクラスの選手だって完走出来ない選手も何人もいる中で完走された訳ですから。完走した選手の中では下から2番目?

そうですね、ブービー賞。

ーーフィニッシュテープを切ったときは、どんな想いでしたか?

走ることに関しては一生懸命やりきったと感じていたので、カンボジア代表としては「よし、やったぞ」と。ゴールをしたら、あとはもう自由に。そこからは切り替えて会場を盛り上げようと、もう一回、コースに踊り出たんです。

ーーさすが、エンターテイナー!

かかっていた音楽に合わせて「ラッセーラー!(持ちネタ)」とか踊っていたら、なんかその…満員の客席から「カンボジア!カンボジア!」って声援が出て。10分間ほどずっとやっていたんですよ。そうしたらオリンピックに関係なく、大会を盛り上げた人の3人に選ばれて(笑)。

カンボジア人に愛されて

閉会式が終わってから、カンボジアの選手団でみんなでカンボジアに戻って。代表選手が練習するカンボジアのオリンピックスタジアムがあるんですけど、そこで「帰ってきたよ!」と挨拶するや否や、他の選手たちがバーッと寄ってきて「ありがとう!ありがとう!」って言ってくれて。なんでだろう?と思ったら、カンボジアでゴールシーンがたくさん放送されていたみたいで。「小さい国のカンボジアを世界に広めてくれたからだよ、ありがとう」って言ってくれて。その時、初めて「猫の恩返しが出来たかな?!」って(笑)。

ーー猫さんの言葉を借りるならば、マラソンのブービー賞ランナーが、一躍、オリンピックのスターになった。これは、猫さんがエンターテイメントの心をずっと忘れずにやってきたからで、猫さんにしか出来ないことですよね。最終的にカンボジアにも恩返しが出来た。カンボジアの人も「猫はカンボジア人だ」とおっしゃっていたとか。

とにかく喜んでくれて。日本では、カンボジアのことをよく知らない人に批判をされたこともあったけど、そんなのは痛くもかゆくもなくて、別にどうでもいいじゃないですか。けれど、カンボジアの選手に受け入れられないというのが1番きついと思っていたので。でも、カンボジアの選手たちは、僕がカンボジアで1番練習している姿を見ているし、僕が「日本の大会で自己ベストを出した!」などとFacebookであげると、「猫!おめでとう!」と、メッセージを送ってくれるし。逆に彼らが結果を出したら、僕もメッセージを送ります。そういう関係なんで。だからカンボジアの選手たちが喜んでくれたことが、1番嬉しかったんです。

ーーとなると、これからカンボジア国籍を変えるということは?

ないです。

ーー生涯、カンボジア人として生きてゆく?

そうですね、はい。

過去は変えられないが

ーー「結果を出せば、誰に批判をされようがいつかきっと分かってくれるだろう」という、そんな強い思いを。

入口こそ変わってますけど、自分がその気になれば、いくらでも変えられますから。

ーー色紙にも、メッセージをお願いします。

「過去は変えられないが、今を頑張れば未来は変えられる。ニャー!」です。国籍を変えてオリンピックに出るという、カンボジアの人たちにとっては失礼なことをしたかもしれないけれど、実際にやってみて思ったことは、「過去を気にしていても変わらないし、未来も暗くなっちゃうばかりだ」と。だったら、1日1km増やしてみたり、前向きに考えてみたりとか。そうすれば、他の選手たちもそれを見てくれるし、僕のメニューをやりたいと言ってくれる中距離の選手もいる。友達もすごく増えました。「未来を変えられたな」と思っています。カンボジア人になってから、本当に良いことばかりです。ありがとうございました!

ーー最後にカンボジアを背負って、カンボジアギャグでPRをお願いします!

ええ、カンボジアギャグですか?!ん~プノンペン!はい!ラッセーラー、ラッセーラー…ん~アンコールワット!

ーー(笑)。本日のゲスト、猫ひろしさんでした!

(カンボジアの)選手に怒られますよ、今のギャグ(笑)。ニャー!ありがとうございました!

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※この内容は、「一般社団法人陸上競技物語」の協力のもと、YouTubeで公開された動画を記事にしました。