特集2022.03.09

【陸上物語FILE 6 村上幸史】 日本陸上界のレジェンドが引退前に語った陸上物語

アスリートの生き様を尋ねて全国を回る「陸上物語」。 
6人目のゲストは陸上男子やり投げで日本選手として初めて世界選手権でメダルを獲得し、オリンピックに3回出場した42歳の村上幸史さんです。愛媛県で生まれ育った村上選手が投てきを始めたのはなんと高校生の時。
「競技のピークは年齢で決まることがない。年齢で決まるわけがないし、年齢を重ねたからこそ、たどり着くところがある。」と話す村上選手の陸上物語。アスリートではない私たちの生活の中にも、生きる言葉がたくさんありました。引退を発表されたのは昨年(2021年)9月。その直後のインタビューです。どうぞご覧ください。

田島直人記念の思い出

ーー田島直人記念陸上(日本グランプリシリーズの山口大会)の思い出はありますか?
山口県の方もご覧いただいていると思うので。僕が初めて田島直人記念陸上に入った時は開催地が下関陸上競技場だったんですよ。ホテルの近くに漁港があったと思うんです。

ーー唐戸市場?
そうです。そこでふぐは食べていました。

愛媛県越智郡生名村


ーーお生まれが愛媛県の越智郡、生名村?
そうですね。愛媛県のどこかも説明をするのが迷うぐらい瀬戸内海にある島だっていうことで。

ーー目の前に広島県の因島もあって。
そうですね。住所は愛媛県なんですけれど生活圏は広島県ですね。言葉も広島弁で。

ーーどんな村、どんな島ですか?
今は島同士が合併をして。上島町っていう地名になっているんですけれど。当時は生名村だった。人と人との距離がすごく近い。周りの方、住んでいる方が身近な人。

母はソフトボール選手

ーーご両親も何かスポーツをされていましたか?
母はソフトボールをやっていましたね。僕の先輩にもなるんですよ。

ーー今治明徳高校の?
はい。まさか母親と同じ高校に行くとは思わなかった。

ーー偶然ですか?
偶然ですね。それも人との繋がりがあって。僕は中学まで野球をやっていたんで、高校も野球に進もうと思っていたんですが、中学校の体育の恩師が、やり投げの高校チャンピオンだったんです。

中学の恩師のすすめで

ーーまた、そんな人がその村にいるというのが!
生名村ご出身なわけではないですよね?

違います。先生が僕の体育の授業を受け持ってくれていた。当時は分からなかったんですけれど、「幸史はやり投げをやったらすごい選手になる」というのは言われていたみたいで。職員室に呼ばれて「やり投げをやってみないか?」と言われて。当時、やり投げって、なんとなくのイメージはあったんですけれど、どういう種目か?どういう特徴がある競技なのか?全然分からなくて。でも、やり投げという種目は高校から始まる。僕の中ではポカーンとしていたんですけれど。そのポカーンとしている僕に対して、「やり投げをやったら日の丸をつけられるぞ。日本一になってみないか?」と、言って下さった。そんなことを言ってくれる人は、これから出会う人の中で何人いるのか?と考えました。それがきっかけですね。日本一、日の丸を背負って、日本代表として、世界各国の選手たちと競い合うイメージが、僕の中でインパクトがあった。

夢はプロ野球選手だった


ーー野球を始めたのはいつですか?
野球は小学4年生ですね。

ーー中学でも野球部で。その時は最速何キロぐらい投げていたんですか?軟式だとは思うんですけれど。
測ったことがないんですけれど、135km/hぐらい。

ーー化け物ですよ、中学校の軟式で135km/h。じゃあもう、プロ野球選手になるぞとは?夢はそうでしたね。野球で進むという進路も、僕の中では決めていたんですよ。

ーーお呼びはかかりますよね?
はい。

ーーちなみにどこから?
松山商業高校。

ーー古豪!そこで待ったをかけたのが先生?
そうです。

ーー中学時代ってやりって投げたことは?
ないですないです。

ーー今治明徳高校はスポーツ推薦で入るわけですよね?投げたこともない種目で推薦を受ける?そんなことあります?!
人との繋がりが不思議だなって思うんですけれど、その中学校の中谷先生っていう恩師が、今治明徳高校の浜本先生が同級生なんですよ。そういった繋がりがあって。

ーー見る人が見たら、村上くんはもういきますよ。あなたが言うんだったらそうなんでしょ、引き受けます。と。たまたまお母様と同じ高校。喜ばれたんじゃないですか?
母親がお世話になった先生がまだ在籍をしていました。

高校時代の忘れられぬ出来事

ーーメキメキと高校でも記録を積み上げていかれたと思うんですけれど、高校の時に1番印象的だった、大会やシーンってありますか?
ネガティブな思い出なんですけれど、中学の恩師の中谷先生に「日本一になれる。将来日の丸をつけられる」それを真に受けて、自信満々で高校に行く訳じゃないですか。インターハイというのは愛媛県の地区予選。東予地区、南予地区、中予地区があって、僕は東予地区に所属していたんですよ、そこを勝ち上がったら県大会、四国大会、インターハイに繋がるんですけれど。僕はその東予地区大会で予選落ちをしたんです。

ーーその時の記録は?
36mですね。その大会を予選落ちをしたのが、高校3年間の中で1番記憶に残っていますね。インターハイ優勝とかよりも。

ーー自分の中ではもっと投げられると?
自分の持っていた自信を全て砕かれた瞬間だった。

陸上競技と向き合う姿勢

ーーこの番組に以前、佐藤友佳選手も出て頂いたんですけれど、「思っているより、やり投げって難しいんですよ」と、仰っていました。
陸上競技というのは本当に誤魔化しが効かない。体一つで表現しないといけないんですよ。体一つで物を遠くに投げる。見ている第三者からしたら、ハッキリと結果が分かるというのが、陸上競技。遠くに飛んだか飛んでいないか、速く走ったか走っていないか、高く飛んだか飛んでいないか。

ーー誰がどう見ていても「この人が勝ち」というのがハッキリとしていますもんね?その分、裏での努力は?
日々のトレーニングの中でなかなか変化が現れない。2ヶ月後、3ヶ月後、初めてなんとなく分かってきたかな?こういう感じなのかな?というのが、唯一の自分に対しての自信。そういうものをどれだけ見つけていくかが陸上競技。

ーー陸上競技には色々な種目がありますけれど、中学校の時の記録をなかなか抜けずに、高校、大学とか平気であるような世界じゃないですか?
そうですね。陸上競技というのはそれがありますね。

ーーそういうもどかしい、難しい時間を過ごしながら今、これをご覧の方もいらっしゃると思う。どういいうモチベーションで見据えたら良いですか?
正直、陸上競技の練習って、楽しくはないと思うんですよ。ただ、自分自身の中での、勝手に決めた課題だとか、目標だとか、そういったものを明確に持つことが大事だと思う。外から見たら何の変化のないトレーニングでも、自分の中では非常に変化がある。昨日はこれが出来なかったけれど、今日は何となく、、、あ!こうすれば良いんじゃないかな?!そういう反復をしていくからこそ見えてくる自分自身の課題だとか。自分自身の変化とか。そういったものを楽しむということが継続につながっていくと思うんですよ。ただやらされている練習というのは、面白くないんですよね。同じトレーニングでも、自分なりに変化を加えていくのが大事だと思うし、そういったものが僕は今まで出来たから、長い間、競技を続けられたというのもあると思う。そういうのを見つけるのが得意ですね。

レジェンド村上氏からのヒント

ーーそれって、どういうところにヒントがあるんですか?
1番はパッと考えたこと。僕の中ではゴールデンタイム。と、呼んでいるんですけれど。
まずはやってみる、行動をしてみる。自分自身が感じているというのは、僕自身が大事にしている。その瞬間を見つけるために、僕は練習をしていると思っているので、思いついたこととか、ちょっと考えてみたこととか、パッと閃いた!というのは、自分の体で実際に体験してみるというのは、絶対にやる!それを逃したら、絶対的に損だと思っているので。

ーーそういう意味でゴールデンタイム。その時にやらないと、形が無くなってしまう。考えることはみんなやっていると思うんですよ、ただ、それを実際にやっている?というのが、非常に大事になってくるんじゃないかな?と、思います。

ーー今、情報社会で、ネットで検索をしても色々な情報が入ってくる。指導者の方からも色々なことを言われるだろうけれど、まずは試してみること。
そうです。実際にやってみて、自分なりの答えを出すことがやっぱり大事だと思います。そういったものを自分で選択が出来ないと、競技というのは行き詰まっていく。特に陸上競技の場合は。
例えば高校3年間だと、恩師の先生が1から10まで全部教えてくれて、その頭脳も先生にはある。先生が考えてくれて、こいつはこうしたら良いのかな?どういう感覚を持っているのかな?そういうことを考えてくれているから成功している選手ももちろんいると思う。それがずっと続くかといったら、そうではない。レベルが上がってくる。競技経験が足されてくると「自分自身の色」をはっきり出していかないと競技というのはなかなか成功をしない。

ーー自己分析、まずは自分を知ること。
そうです。なかなか自分というのは、知れないんですよ。

ーー私は私でいく。というのではなく?
それも信念を持っておくことが大事。

ーーそのバランスですか?
そうです。せっかく入ってきた情報を何もやっていないのに、それは自分に合わないから。と、パッと消すような選手というのは、もったいないな。と、思います。

日本一の練習量

ーー百戦錬磨の村上さんがおっしゃるから響く。指導をされている面もお持ちですけれど、村上選手の話に戻しまして、高校3年間、恩師に指導をされたことで印象に残っていること、ありますか?
自分が実行してきたことは何か。例えばインターハイに優勝をするなら、その目標を持った選手は全国各地にいる。そういった選手に勝つためには、何をやらなければいけないのか?
やっぱり練習だと思うんですよ。高校3年間というのは、陸上競技を始めてまだ浅いですよね。陸上競技のことも知らなければ、やり投げのことももちろん知らない。やり投げのパフォーマンスを上げるためには、走力系、跳躍系、瞬発系、そういったものをどれだけやるか?というのが、高校3年間は出来る年齢だと思うんですよね。そう考えた時に、練習量というのは、高校3年間は無限じゃないかというぐらい体力があって、追い込めるという時期だと思うので、僕は日本一になるためには、やはり練習も日本一やらないといけない。それは僕自身も思っていましたし、恩師からも言われていました。

鬼の38種サーキット練習


ーーめちゃくちゃ練習をやりましたか?
やりました。

ーー数字で言うとどれくらいの量を?

僕は高校3年間に練習中、座ったことがないです。靴紐を結ぶのもお尻をつけたことがない。今治明徳高校には名物の「サーキットトレーニング」というものがあって、色々な種目のトレーニングを組み合わせて、例えば1から10の種目をぐるっと全部休憩を無しにガーっとやったら全身のトレーニングになっている。簡単に言えばそういうトレーニングなんですが、38種目あるんです。瞬発系、柔軟系とか全部。この38種目を毎日アップが終わった後にやるんですよ。このサーキットがとにかくしんどい。高校1年生の頃はついていくのが精一杯。体力もなくて、女子の先輩がやっている重さも持ち上げられなかったので、身長は181センチあるんですけれど、体重が62キロだったんですよ。

ーーガリガリですよ!
1年生の時は練習が本当に嫌で。慣れてきて高校2年生くらいの時に僕自身が課した課題がサーキットトレーニングをどんな心理状態でも1番最初に終わらせる。

ーー辛いことも早くやってしまおう?
はい!授業の6時間目が終わったら誰よりも早くグラウンドに行って、サーキットトレーニングが終わる頃には目の前には誰もいない。人間は気分の生き物ですから「今日はもうしんどいなあ、、、」そういう精神状態の時もある。そういった時でもグラウンドに入って、練習をパッと始めた時は、切り替える。というのが僕の課題だった。高校2年生から3年生の時はサーキットトレーニングというのは2番以下の時はないですね。

奮い立たせたモチベーションとは?

ーーキツイ練習に立ち向かえたのは?
高校1年生の全てを砕かれたという。「日本一になれる!」と、言ってもらえたのに、それをただ真に受けてただ日常生活をしていても、日本一にはなれないだろうなと気が付いたということ。あとは、「言われた以上は、日本一になってやりたい」

自分で考える練習に

ーー高校2年生と3年生でインターハイ優勝。その後、日本大学に進まれたのはどういうご縁?
高校の恩師と大学の恩師との繋がりですね。

ーー鬼のサーキット練習をした高校時代、大学の練習メニューは変わりましたか?変わりました。1から10まで、全ての練習メニューだとか1週間の流れを考えてくれる存在がいなくなった。「ああ、自分で考えるってこういうことなんだ」ちょっと戸惑いました。何をしたら良いのかな?

ーー言い方を変えれば、楽をしようと思ったら出来る?
そうですね。簡単に出来ますね。

ーーそれだったら堕落してしまうという中で、次に見据えた目標設定は何だったんですか?高校3年生の時に初めて一般の大会、日本選手権に出たんですけれど、僕より強い選手がいた訳ですよ。そういった選手と勝負していくためには、もっとレベルを上げていかなければいけない。それが大学に入ってからはシニアの世界ですからそこは1つの課題でしたね。

怪我で見つめ直した自分の長所

ーー学生時代に日本選手権も獲り、この辺りは自分の中で描いていた通りですか?初めて日本選手権で優勝をしたのは大学の3年生だったんですけれど、大学2年生の時に肘を剥離骨折したんですよ。筋力が非常に弱かったのでウエイトトレーニングに偏った練習をしてしまっていた。簡単に言えば力で投げてしまう。

ーー自分の長所を生かさずというか足りないところを補おうとしたら、、、?
当初は自分の身体特徴を考えてみた時に筋力が圧倒的に弱い。そうしたら無理をしてしまって。今までの流れで投げる投てきというものが、どうしても無くなってしまって。

ーーその中から功名が見え始めて、怪我をした後、日本選手権を獲る。
変えちゃいけないもの。変えるんだったら覚悟を持って変えなきゃいけないものが自分の中に存在しなきゃいけない。筋力アップも大事になってくるんですけれど、今まで培ってきた自分の長所、それを高校3年間で生かしてくれたのは恩師。自分の長所は本来の肝、根本にあるものというのは「バネバネしい助走」その流れを使って投げるというのが、僕の本来のやり投げの形だった。そういったところに僕の原点があったことは幸いだった。僕の基本が作られたこと、恩師には感謝をしました。もしそれが無ければ、僕は迷って故障をして、そのまま大学3年生4年生と棒に振っていたかもしれない。そう考えた時に、高校3年間の僕のあのトレーニング量と、高校3年間で、いつの間にか築き上げられていた僕の芯というものがあったから、そこに戻れたというのがあった。

ーー投げるだけではなく、「走って」、「飛ぶ」トレーニングもたくさんした。陸上競技をやっていない方も、自分を見失いそうになった時、「何かを変えよう」と思って「違う自分を演じる」こともあるけれど、「根本というのは人は変わらない」自分の良さをしっかりと見つめ合った上で、何かを取り入れていく。
そうですね。

世界から認められた日本人選手


ーーそしてそこから怒涛の日本選手権を制されて、その中で、村上選手にとって偉大な記録、溝口さんの存在はどういうものでしたか?
溝口選手、、、。日本記録保持者は溝口選手。84年のロスオリンピックで5位入賞をしたのは吉田雅美選手。この2人の存在というのは、一緒の舞台に立って試合をしたことはないけれど。「やり投げにもそういいう時代があったんだな」

ーー歴史上のこと、という感じですか?
僕が大学生の時は、どちらかと言えば、陸上競技の中でも「投てき」は世界に通用しない。
投てき種目でオリンピック選手になるとか、世界選手権に出たというのが、僕の記憶ではなかったので、すごく悔しい。歴史を辿った時に、吉田雅美選手はオリンピックで5位になっている。溝口さんは当時の世界記録にあと数センチのところに行っている人間。

ーーもしかしたら世界記録をたたき出したかも
すごいじゃないですか。日本の選手が歴史上に2人、世界で戦っている事実がある。それから22年後が僕なんですよ。その22年間、世界に通用しない空白があった。過去には実際に世界で戦った世界から認められた選手が日本人としている。これは僕にとってすごく強みで、今のやり投げの世界もそういう風になっていけば最高。

日本選手権で初挑戦した時の実感

当時大学3年生の時に日本選手権を獲った時に「嬉しい」という実感はなかったんですよ。大学3年で74mという記録で日本一になったけれど、これは世界では全然通用しない。世界大会に出るには標準記録A、Bというのがあって、Bが78m、Aが84mだったんですよ。それと比較をした時に、これでは絶対に世界大会に選ばれる訳がない。標準記録を被ってもいないんだ。当面の目標は大学4年生まで80mを超えたい。これが世界に仲間入りをする1つのクリア条件。大学4年生までに80mを超えられれば、違う視界が広がるんじゃないか?「初めて獲った日本選手権の実感はどうですか?」と聞かれても全然嬉しいという感情はなかったです。

オリンピックを通じて感じる変化

オリンピックをアテネ、北京、ロンドンと3回経験をした。「4年間」という時間は僕たちアスリートからすればすごく短いけれど、でも、この4年間での「変化」は、ものすごいんです。世界ジュニアで僕は銅メダルを獲っているんですけれど、その時の6、7番の選手が、僕より遥かに上に行ったことも。この4年間で世界中の選手たちがものすごい「変化」を遂げている。だからオリンピックというのは、本当に1回1回が違う。アテネの時のオリンピックと、その4年後の北京の時のオリンピックというのは同じ選手層だったとしても、選手のレベルが明らかに変わっている。無名の選手が、世界のトップぐらいに出てきた!とか、これが陸上競技の面白さなのかな?と思う。「オリンピックには魔物が住む」ってよく言いますけれど、僕の中で1回1回のオリンピックは全然違います。

ベルリン世界陸上銅メダルの裏側


ーー突然ニュースターが誕生をすることもあれば上昇していた選手が急に消えることもある世界。世界と戦う厳しさを再度確認されたのかもしれない。そんな中で溝口さんがいたから、「世界で戦える日本にしなければいけないんだ」
2009年の世界選手権の標準記録、今は1本の派遣記録が設けられている。2009年にはまだA、Bというのが設けられていた。僕はB標準を切って選ばれている選手だったんです。他の日本代表選手はみんなA標準。僕の中ではこれで世界選手権で結果を出せば、投てきの見方は一気に変わるんだろうな。投てきのB標準がどれだけ高いレベルで設定されているのか?A標準になってくると、世界入賞ですから、だからそれをアピールしたいなと言うのと、ベルリンの大会というのは、やりの結果は自分の思ったほど出ていなかった。結果が出ていなかったんですけれど、なぜか僕の中ではすごく自信があった年だった。

ーーどうしてなんですか?
やっぱり練習ですね。やり投げの選手は、いろいろなタイプの選手がいる。練習で80m飛んで、試合では80m飛ばない選手がいれば、練習で80mなんて頑張っても飛んだことがなかったという選手もいる。僕は、本番の時にプラス8m飛ばせられるという計算なので、本練習の中で、試合と同じようなモチベーションで投げる。その時に練習で78mぐらいまでいったんですよ。

ーー78mにプラス8mすると、すごい記録になりますよね?
そういった自信というものが、結果は出なかったですけれど、僕の中で自信に繋がる。

ーーそれはご本人にしか分からない?
そうですね。僕はいろいろな世界大会に出ましたけれど、ベルリン世界陸上に参加するときのモチベーションは、すごく自分の中で理想形でしたね。

現役引退について

ーー日本選手権は12連覇を含む13度の優勝。ただ、年齢とともに落ちていく筋力や、否定できない部分はあった?
それはもちろんありますね。

ーーそういう中で村上選手が現役で挑戦する毎年毎年自分の中ではここまでは続けようというのはありますか?
水泳のピークが14歳だという話を聞いたことがある。いや、そんなわけないだろ!と、僕は思っていた。競技のピークは年齢で決まることがない。年齢で決まるわけがないし、年齢を重ねたからこそ、たどり着くところがある。それを継続するかしないか。追求するかしないかだと思う。僕はベルリンの83m10cmこの自己ベストを記録してから、2010、2011、2012、2013と、自己ベストを更新した。31歳から34歳まで。それは自分が陸上競技のやり投げに残せた功績かなと思っている。
例えば、人間の体力のピークは20歳前後っていう。「体力のピーク」が、「競技のピーク」ではない。競技のピークは自分自身が「あ、もうこれ以上無理だ」それがもうピークの終わりだと思うんですよ。追求をしていくのは自分自身に可能性があるから、可能性を感じるから、「もっと出来る」と思うから。選手は追求をしていくんです。その追求心、チャレンジ。そういったものがなくなった時が引退の時期。

下の世代に継承する思い

ーー今回の東京オリンピックに出場された北口榛花選手のご指導もされた。自分がたくさんのものを吸収してきた、経験してきた、世界を見てきたというものを下の世代に継承をしていきたいという思いは?
例えば僕の上だと世界で戦ってきた溝口さん吉田さんという時代が終わってずっとやり投げで世界大会に出られないという時代があったと思うんですよ。そういうのは絶対に無くしたいと思いますよ。
ただ、今、日本の投てきは非常にレベルが上がっていて、全国に日本のトップが散らばっている状況。「将来こういう風にやり投げがなればいいな」と思っていた世界になっていると思いますし、僕の下の選手たちも、ディーン元気だとか、新井涼平だとか、男子だとそういった選手がポーンと出てきて、同じ日本選手権で80mをポンポンと簡単に超える。観客の目から見ても「80mを超えるなんて当たり前だ」と思われる世界。これは非常に理想的な世界だと思いますから、そういった世界が続いていくためにも、僕に出来ることは全て出し切りたいと思います。

大切にしている言葉

「全力は全力じゃない」
全力でやったことは、「全力でやりました!」って言えないです。どれだけやったかというのは言葉では表せられない。「全力でやりました」というのは、僕の中では全力ではないと思っています。
口先だけでは表現が出来ないというか、表現をしたくないというか。人にどう思われようが、自分自身が「やった」と思えればそれでいい。それが全力だと思っています。

陸上物語の情報はこちら!

激白!鬼の38種サーキット練習とは?【村上幸史】【前編】

現役引退。レジェンドから後輩たちへ贈る言葉【村上幸史】【後編】

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※この内容は、「一般社団法人陸上競技物語」の協力のもと、YouTubeで公開された動画を記事にしました。