特集2022.07.29

【陸上物語FILE 17 森脇健児】 ホンマに!?40年前の洛南高校陸上部の話

陸上物語17人目のゲストはやる気、元気、森脇健児さんです!
森脇さんの母校である、名門・洛南高校を舞台に、インタビュー。
18歳の時に松竹芸能に入り、華々しく芸能界へ。今も活躍し続ける森脇さんの根底には、洛南高校陸上競技部時代の恩師・中島先生の言葉や教えがあふれていました。

素直!謙虚!感謝!のルーツ


「やる気!元気!森脇!」でございます!

ーー早速来られました(笑)!ありがとうございます!

いや〜懐かしいですね。365日×3年通いました!

ーー校舎はちょっと当時とは面影が変わっていますよね。

僕らの時代はこっち(現在はグラウンドがある新幹線側)で学んで、東寺側(新校舎があるほう)がグラウンドやったからね。

ーーそこを1回綺麗にして、埋蔵物とかもしっかり調べた上で、どーんと新校舎が建てられた。

すごいね。こう考えたら洛南高校がさらに進化していて、もう僕らの知っている洛南高校じゃ…。

ーーでもね、変わらぬものもこちらにあるんですよ。

なに?なに?なに?

ーー健児さんに大変失礼な質問なんですけれど…洛南高校の校訓って言えますか?

もちろん!「自己を尊重せよ」、「社会に献身せよ」「真理を探究せよ」、すなわち「素直!謙虚!感謝!」です!

ーー(笑)。森脇さんのルーツにもなったと言われている、洛南高校の校訓ですね。

僕が芸能界で生きていく上での1つの指針にもなっています。何かあった時は「自己を尊重せよ」、「社会に献身せよ」、「真理を探究せよ」。この3つの言葉を自分の中で言い聞かせているんです。ここで学んだことは高校時代はよく分かっていないけれど、後々、血となり肉となっていくんですよね。

ーーまさに今の森脇健児さんを作った場所ともいうべきですか?

原点ですよね。未だにたまに思い出しますもんね、「雑巾になれ」っていう言葉。高校の時は何のことか分かりませんでしたが。

ーー中島道雄先生(元・洛南高校陸上部監督)のあのお言葉?

「社会の雑巾になれ」と教えて頂いて。自分を汚して、周りを綺麗にして…つまり、「自分を犠牲にしてでも、社会のために生きなさい」ということですね。「自己中心的ではダメだ」ということ。「自分だけ良くなってもいけない、謙虚になれ」ということでしょうね。

“洛南あるある“を言いたい

ーー靴箱を見たら学校に来たなと言う感じがしますよね。

なんだかもう…青春ドラマとかに出てくるような靴箱ですね。僕らの時なんかダッサい…(笑)。上履きのつま先部分に「森脇」って書かなあかんかったのよ。同じ苗字のやつがおる時は「田中〝の〟」みたいに一文字足してみたり(笑)。

ーー(笑)。間違えちゃダメですもんね。

そんなん誰も間違えへんのにね、高校生で(笑)。

ーー食堂は当時からありましたか?

ありました。特に印象に残っているのがカレーです。カレーは3日目じゃないと美味しくなかったんですね(笑)。必ず食堂の調理の方に「カレーいつ作りましたか?」と尋ねて。「月曜日」と答えられたら、みんな水曜日に行く(笑)。

ーー(笑)。月曜日はカレーを食べないんですか?

食べない(笑)。僕らは水曜日に行ってましたね。「3日目のカレーしか食べへん」なんて、生意気なことを言いながら(笑)。※今は月曜日から美味しいです。

ーー今の新校舎では世界遺産を望みながら授業を受けられるんですね。

僕らが高校生の時は新幹線が真横を通って授業を受けていましたので、ドクターイエローが何も珍しくなかったんですよ(笑)。普通に通っていましたから。この東寺を見るたびに、高校時代の気持ちに一瞬タイムスリップしますよね。「あの頃、僕頑張っていたよな」と思って。この東寺のグラウンドで、汗水流していたことを思い出させてくれますよね。高校生の頃なんて…こんなん言うたらあかんけれど、なんとも思いませんでしたもん(笑)。

ーー毎日通っているから当たり前の存在に感じますよね。噂で聞いたんですけれど、森脇さんの頃はトイレットペーパーがなかったんですか?

ありませんでした(笑)。トイレに行く時は自分で持ってきたティッシュを。クラスで紙を持っていなかった友達は「貸してくれ!」ってよく言ってましたね。そういう友達には、あえてイタズラしてやろうと思って「2枚しかないけどいけるか?」と(笑)。そうしたら「頑張ってみるわ」なんて返ってきて(笑)。

ーー(笑)。

「どやった?」、「うん!頑張れた」って(笑)。絶対嘘やろ!なんて言いながら、よく盛り上がってましたね(笑)。

ーー(笑)。

というか、それくらいしか面白いことがなかったんですよね(笑)。

1年生の時なんて「エライところ来たな」って思っていました(笑)。

ーー今、思い出すと入学試験と一緒に、何か書かされた記憶があるんですよね、名前を。

誓約書じゃないですか?

ーーあれを書いた以上、何も言えないんですよね。皆さん、ご経験ありますか?誓約書を書くんですよ、試験と一緒に。

「規則を守ります」ってやつね(笑)。

ーー全てがこの学校のルールなわけですよね。その1つとして私が苦しんだのは「身装検査」でした(笑)。これ、健児さんはOKですよね。①前髪は眉毛にかかってはいけない②耳周り後ろはバリカンで刈り上げ③もみあげも刈り上げという…。

でもね、高校を出た瞬間、髪の毛を伸ばしたんだけれど、数年経ったらやっぱり戻しますよね(笑)。

ーーわかります(笑)。あの時は嫌でしたが、宗教の先生が当時「(宗教は)輪廻の世界やから、お前らは今1番をいってるんや!」なんておっしゃってましたけど、今になるとなんとなくそれが分かってきました。今、実際にみんな「洛南カット」してますし(笑)。

やっぱり短くなってきますよね(笑)。あの3年間の教えが何年後かにしっかり生きてくる。

陸上強豪校の卒業生として

後輩たちもここ(洛南高校)で汗水流してやっていて。洛南高校陸上競技部が全国インターハイで総合優勝という成績をバンバン出して(2大会連続、全国最多9回)…。
今やもう、名門高校ですよね。それが僕にとってはすごく刺激になる。「後輩たちがこれだけ頑張っているのに、僕は何をしているんだろう」と。しかも日本一にもなって、「洛南高校陸上部」というブランドもできた。長距離にしても短距離にしても、投てき、跳躍にしても。そんな洛南高校陸上部の先輩として、僕もこの高校3年間ここで汗水流して走り続けたわけです。とにかく一生懸命でしたよね、あの時はキツくて苦しくて何も楽しいことなんてなかったけれど。毎日が重くてしょうがなかった。重いんですよね、毎日が(笑)。
キツイとか苦しいというような言葉の向こう側にある、「重い」(笑)。真っ暗な中、どこに向かって走っているか分からないような高校3年間でした。でも、そういった青春時代だったけれど、あの3年間を乗り切ったからこそ、今も頑張れるというか。今、芸能界で仕事をさせて頂いてますけど、「あの3年間を頑張った僕がいるじゃないか」と思いますよね。今、あの時を振り返ったら、キラキラしている16歳、17歳、18歳の森脇健児少年がここ(洛南高校)にいるわけです。丸刈りで(笑)。
ただ一生懸命に毎日、朝から夕方までひたすら走って。「それだけ打ち込んだ僕がいたんだから、今も頑張らないと」と思いますよね。高校時代の森脇健児少年がタイムスリップして今の僕を見た時に、ガッカリさせてはいけないなという思いもあります。

ーー当時はただしんどいだけだったかもしれないけれませんけれど…。今の時代、コロナ禍で芸能界もなかなか厳しかったりするんじゃないかと思います。そんな中、当時の自分を思い出されたりしますか?

コロナ禍で仕事が激減することもあります。芸能界ってやはり波がありますから、良い時もあれば悪い時もある。だけど、悪い時…つまり落ちた時に上がれないこともあるんですよね。落ちたら、落ち続ける。だから落ちた時には死ぬほど努力しないといけません。すぐには上向かないけれど。そういった時に高校時代のことを思い出しますね。「陸上競技であれだけ頑張ったんだから、あの時も頑張れてんから」って。そういった思い出があるから、今も頑張れているんじゃないかと思います。

ーーこのチャンネルを見ているたくさんの陸上部員の皆さんの中にも、「しんどい、やめたい」と思っているか人がいるかもしれないけれど…。今の森脇さんの言葉がとても力になっているんじゃないかと思います。

(陸上部を)辞めちゃうと、存在が消えるような気がしていたんですよね。特にこの洛南高校は、勉強ができる人もいるし、サッカーも水泳も柔道もバスケも強い。なんでも強いじゃないですか、ここ(洛南高校)。全国トップクラスですよね。そんな中、僕が陸上競技を辞めてしまうと、存在がふわって消えるような気がしていましたね。

森脇三兄弟の次男坊

ーー森脇三兄弟、みなさん洛南高校に進まれたとお聞きしました。森脇さんは真ん中でいらっしゃって。お兄さんの影響で中学校で陸上を始められたんですか?

兄貴が速かったんですよ。僕が入った時に兄貴が中3で、当時お世話になっていた葦原先生っていう枚方一中の監督が「兄貴が速いんやからお前も速いはずや」と、陸上部に誘ってくださって。最初に出場したのが、枚方の1番小さな大会でした。枚方総体で、100m予選落ち、記録は14秒1。準決勝も決勝も行けない。兄貴は近畿で200m2番。洛南高校からオファーも来ていました。僕は中学1年のデビュー戦で14秒1。枚方でも予選落ち。選手として、全然ダメなわけです。

弱小ランナーの成長回顧録

もっと言えば、枚方第一中学校の1学年12組まであって、すべての部活動の中でも30番にも入っていない。100mの速さも全く及ばない。そんな選手だったんです。

ーーそんな悔しさからスタートした?

枚方で勝つとか、大阪で勝つとか、近畿で勝つとか…そんなレベルで考えられなかったんです。でも練習だけは休まなかった。すると、中2の夏休みが終わった頃、秋の大会でいきなり12秒3が出て。北河内(枚方・交野・守口・寝屋川・門真)の北河内大会で5番に入ったんです。予選、準決勝を突破して決勝で5番。その時に思いましたね、「努力は嘘をつかない」と。

ーーすごいですね!何が変わったんでしょうか?やはり鍛錬あるのみでしょうか?

先生の言うことを聞いて、練習を休まなかったら、記録が14秒1の中学1年生でも、中2で12秒3になれたという感覚ですね。

ーー素晴らしいですね。

そして中学3年生で11秒6。大阪でベスト10に入りました。北河内で3番に入って、大阪大会に出場するわけですね。全大阪でベスト10に入ったんです。地元枚方ではもちろん、1番。

ーー最初は枚方でも予選を突破できなかった少年が大阪でベスト10に。

決勝を1番で走れるくらいまでに成長したんですよね。陸上競技が「ちゃんと努力すればちゃんと結果が出る」ということを教えてくれました。「努力は嘘をつかない」ということですね。

洛南高校進学の秘話

ーーその中で洛南高校からお声がかかる訳ですか?

兄貴が洛南でお世話になっていたんですが、毎日5時半に起きて6時に家を出て、朝練をやって…。そして家に帰ってくるのが21時とか22時になるんですね。ボロボロになって帰ってきて、お風呂入ってご飯食べるすぐ寝る。そういった生活を弟(森脇さん)は見ているわけです。それでいて、頭は丸刈り(笑)。出来るわけありませんよね(笑)。「出来ひんわ」と思いました。ぶっ倒れてましたからね、毎日。

ーーでも、洛南高校に進学することになったんですよね?

中学3年生の時に、大阪で決勝に残ったらベスト8です。なので、大阪でベスト8になれたら、陸上競技で学校に行こうと決めたんです。ベスト10にも入らなかったら、地元の公立高校で楽しく陸上をやって、共学で女の子と遊んで、いわゆる「青春」をやりたいなと思っていました(笑)。そうしたら、9番に入った(笑)。10番以内に入ったんですよ。ベスト8やったら、洛南高校に行こうと思っていたけれど、帰りの京阪電車の中で「このままでは辞められへんな、よし」と決意して、洛南高校にお世話になろうと思い、頭を丸めました。

〝当時の〟洛南高校陸上部

ーーモテたいという気持ちは1回捨てて?

中学3年生の時に付き合っていた女の子がいたんです。高校生になっても付き合おうねと話したら「もちろん!」言ってくれました。これで楽しい高校生活は保障されたなと思って、思い切って丸刈り(0.5mm=5厘刈り)にしたら、「住む世界が違うみたいね」と(笑)。…切ない(笑)!

ーー(笑)。でも、かえって競技に集中出来たんじゃないですか?

そうやね(笑)。

ーーその時の先生が中島先生?

中島道雄監督ですね。

ーー中島先生が先生になって何年目で?

中道先生は当時30代前半、バリバリの頃でした。京都総体というのが5月にあるんですけれど、今の監督の柴田博之さんたちが、洛南高校陸上部を京都総体総合優勝に導き、輝かしい成績を残してくださりました。それからというもの、総合優勝がずっと連続でつづくんですね。ちょうど洛南高校陸上部がグーっと滑走路を走り出した、そんな時期だったと思います。部員も80人くらいいましたね。本当に面白かった。色んな部員がいましたね(笑)。

ーーどんな人たちがいらっしゃったんですか?

投てきも長距離も短距離も…みんな地元でトップの選手が集まるんですよね。滋賀県トップ、大阪も高槻や島本町や枚方、そして奈良県のトップまで…。そこそこみんなプライドを持って入学するんですけど、ここに来てみんなで走ると、先輩方が速すぎて…(笑)。とてもじゃないけれど試合に出られない。「エライところに来たなあ」と思いましたね(笑)。上下関係もあるし。

ーーそこが聞きたい…!今だから言える上下関係ってどんなところがあったんでしょうか?

高校に入学するまでに、洛南高校に集められて練習をするんですね。中学3年生の時から。その時は先輩も先生も優しいんですよ。「はい、みんな〜」って(笑)。「今日は100m10本ね」、「しんどくなったら休んでいいからね」という感じで(笑)。だけど、いざ明日は入学式という時になって「…ええか?」と話し方が変わる(笑)。「おい。明日入学式やから、5厘な」、「1mmはあかんから、散髪屋行って5厘って言うてこい」、「俺らが6時半に来るからお前らは明日から6時20分集合な」…急に違うやん!って話ですよね(笑)。

ーー(笑)。さっきまでの雰囲気からは180度変わって…。

入学するまではお客さんなんでしょうね。でも入学式からは全然違いますからね、もう鬼(笑)。

ーー今はもう変わっているかと思いますが、色んなOBの方にお話を聞いても森脇さんのあたりが「とても楽しかった」と伺います。

勢いはあったと思いますね。僕らの学年で和田くんっていう選手がいて。今は会社の社長やってはりますけれど、当時、パチンコが好きでね(笑)。京都みなみ会館の隣側にパチンコ屋さんがあるんですけど、練習終わりに「おい、健児。今日あそこのパチンコ屋、新装や。」、「行くの?」、「おお。行くで」と学生服を脱いで…(笑)。
そうしてパチンコをしていたら進路指導の先生に、ポンポンって後ろから肩をたたかれて。「妙なところでお会いしましたね」と(笑)。「もうそろそろおやめにやったらいかがですか?」と指導を受けたこともありました(笑)。

ーー当時の古き良き時代のお話ですね(笑)。

パチンコ、行ってましたね(笑)。

ーー健児さん、これ陸上物語ですからね!

あ、陸上物語やったね(笑)。

プログラムに名前が載る男

ーーインターハイにも出場されていらっしゃいますよね。

400mリレーで走らせていただきました。全部はっきりと覚えていますね。秋田インターハイの第3走者として予選を走って…。全部で8コースあるんですが、僕らは6コースでした。1コースは北海道、2コースは秋田。そして3コースは関東。6コースに僕ら関西がいて、山陰、九州が続きます。いろんな方言が聞こえてくるんですね。「頑張るべ、俺やるっぺよ」、「よかたいよかたい」、「なんくるないさ〜」なんて声が聞こえてきて…。

ーー走る前に、そこで「全国」を感じられたんですね。

そうですね。「こんな方言あるんや」という感覚の中で、「全国」を感じましたね。

ーーインターハイに出られる選手は、すべての陸上部員の中でもほんの一握りですよね。健児さんご自身もしっかりとタイムを出されて(100m 11秒台)。当時の感覚で「11秒2」といったら?

京都でぎりぎり6番に入って、近畿インターハイに行けるぐらいの感覚でしょうか。京都の陸上競技大会では配布されるプログラムがあるんですよね。出場する選手は皆もらうんですが、京都総体とか近畿ユースとかの大会のプログラムに「歴代優勝者」が記載されているんです。そんなプログラムに僕の名前が「400m 京都総体 1年生 森脇健児 53秒0」として載っている。当時大会記録で勝った記録が、永遠に残っているわけです。
うちの子どもも弟の子どもも陸上部に入っているんですが、「歴代優勝者」としてプログラムに載った私の名前を見て「えー!載っているやん!」と。初めてそこで、「近畿で勝つすごさ」とか、「京都で勝ったすごさ」みたいなものを子どもたちや姪っ子たちの世代に繋いでいけるんですよね。
高校1年生の時に出場した大会が、京都インターハイでした。ここで6番に入ったら近畿に行けるんですね。そして、近畿で6番に入ったら全国に行ける。1年生でメンバーに入れられて、マイルリレー(4×400m R)で、2走を走ったんですね。こんなことを言ったら無礼かもしれませんが、普通に走れば決勝で6番には入れるんです。ですが、僕は後ろから来た選手に接触してバトンを落としてしまった(笑)。

未だに覚えているのが、スローモーションでバトンが落ちていった映像。全員に抜かれて、バトンがポーンと放り出されて…地に落ちたかと思えば、何故か最後は私の手に(笑)。
「へ?」って思いながらも必死に走って先輩にバトンを繋ぎ、3走の先輩も必死に走ってくれました。でも、まだ8番。6番目掛けて、アンカーの先輩が最後に思いっきり走って下さって、やっと6番に入ることができたんです。無事、近畿大会に行けたんですが、一緒に走った東さんという先輩は「人生で400mをあんなに一生懸命走ったのはあの時だけや」と、未だに同窓会でおっしゃいますよね(笑)。僕もあれは未だに憶えています。

ーーその時から強運をもっていらっしゃったんですね。

その後、近畿大会に出場した時にはマイルリレーのメンバーからもちろん外されているんですけどね(笑)。でも洛南の強いところは、京都で6番、近畿インターハイでも6番、そして全国決勝でも4番に入るという…。これが洛南高校陸上部の「強さ」だと思いますね。

ーーその時に森脇さんがバトンを拾えてなかったらそこまで行っていないわけですよね。

聞くところによると、後にもそんな後輩が2人ほど出てきたみたいですけどね(笑)。

ーーえ…(笑)。

東京オリンピックでもバトンに関しては苦い思いをしていますしね(笑)

ーーそれだけ難しい種目だということですよね。

恩師・中島道雄先生の言葉

ーー先ほど中島道雄先生の「雑巾」の話がありましたが、他に心に残っている言葉はありますか?

あります。「メッキは禿げる」、「うさぎになるな亀になれ」、最後に「ボケなすび」(笑)。なんやったんやろう…「ボケなすび」って(笑)。
まず、「メッキは禿げる」というのは、「いい加減な練習をしていたら、練習では勝てても、試合では勝てない。今は良いかもしれないけれど、大学に行って、社会に出た時、そんなことをやっていたら役に立たない。ある程度のところまで行っても、すぐに落ちていく」ということだと思います。
「うさぎになるな亀になれ」は、「人生というのは20代で終わるわけではなく、ずっと続くもの。コツコツやっていたら、結果、最後はうさぎよりも亀が勝つんだよ。だから一歩一歩、何があっても、自分の信じた道を歩きなさい」ということを教えてくださったのだと思います。

ーーあともう1つは…?

「ボケなすび」…あれは未だに分かりません(笑)。

ーー先生と生徒の愛情、間柄ゆえのお言葉だったのかもしれませんね(笑)。

水たまりで泳げ

ーー「おもしろきこともなき世をおもしろく」
かつての偉人はこう詠みましたが、まさにそんな3年間を洛南高校で過ごされた森脇健児さん。大概、楽しんでいらっしゃったような印象がありますが…

基本的に楽しみががないんですよ。男子校ですし、校則も厳しい。朝練習をやって、昼間にその日の夕方におこなう練習メニューが発表され、夕方練習をして帰る。これが365日×3年。春休み、夏休み、冬休みは合宿三昧。楽しみがないんですよね。だからこそ、日常にある小さい楽しみをいっぱい見つけていくことが大切だったのだと思います。

ーーその楽しみの1つなのかもしれませんが、洛南高校OBの方で森脇健児さんの後輩の方が、水たまりで泳がされたって…(笑)。ちょっとよく分からないのですが。

記憶にはないですけれどね(笑)。僕の記憶にはないですし、やっていたかどうかもよく分からないんですが、面白かったんでしょうね、後輩が泳いでくれるんですから。…面白かったんじゃない?(笑)

弁論大会は漫談披露の場

洛南高校って弁論大会とか水泳大会とか、多くの大会があるんですよね。この「大会」をいかに楽しむか、僕はこれに1番賭けていましたね。

ーー弁論大会っていわゆる「ガリ勉」しか出ないイメージなのですが…。

そう。だからすごい大会ですよ!

ーーちなみに森脇さん、ご縁ありませんよね?

(出場者には)京大や東大に現役で入るような子たちが在籍する「特別進学コース」の子たちが、軒を連ねていましたからね。今の社会情勢やボランティアについて、ものすごく真面目に原稿用紙にビシッと書いて…。担任の先生に持っていって添削指導をして頂いて、何回も喋り方を練習して、ようやく本番に臨む。

ーークイズ研究部の部長で、全国クイズ選手権みたいなのに出ているような子も多くいますよね。

頭が良いわけです。しかも、文才もある。そんな中、僕はカセットテープにネタを…(笑)。

ーーえ?出たんですか?!

当たり前じゃないですか!高校2年生の時でした。ネタを喋ったんです。

ーー体育会で弁論大会に出る人なんていらっしゃるんですか?!

僕は出ましたね。タイトルは「サクセスストーリー」(笑)」。

ーー「成功への道」!?

そうそう(笑)。みんなは真面目に社会情勢や、ボランティアについて発表している中、僕はサクセスストーリー。
(森脇)「先生!出来たんですけれど!」
(担任)「おう!原稿用紙持ってこいよ!」
(森脇)「いやいや、テープに吹き込みましてん!」(担任)「テープに吹き込んだ?!」

ーー(笑)。

(担任)「わし、添削出来ひんやないか」
(森脇)「先生、添削はいりません。とりあえず聞いてくださいよ」
(先生)「(録音を聞いて)うーん…優勝はないな」
(森脇)「そうですか…でも、出ていいですか?」
(先生)「まぁ、ええんちゃうか」

2人で先生の車に乗って、カーステレオで録音
を聞いてもらった末、出場して「漫談」することになりました(笑)。

ー弁論大会ですよ(笑)。

僕、その時からずっとプロになること決めていたから、やりたくてしょうがなかったんです。人前で喋りたくてしょうがない。当日も、「どうもーーーーー!!!僕ら洛南高校入って2年経ちましたけれど、びっくりしますで!テレビ見たら、「高校聖夫婦」いうて、バイクの後ろに伊藤麻衣子さんがへばりついて、「どこまで行くの?どこにでも連れて行って!」みたいなことやっているわけです。俺ら洛南高校では、そんなん一切あらへん。出迎えるのは、東寺のハトや。」

ーー面白い(笑)。

当時「門爺さん」といって、グラウンドから校舎入る時に水をブワーってかける守衛さんがいたんですね。「僕らぐらいでっせ、高校3年間、ずーっと上履き濡らされてんの!どんな高校生活や!」なんて言いながら、最後は「こんな高校生活やけど、きっと我々は10年後、20年後、30年後、きっとこの経験が生きるぜ。今、我々はまさしくサクセスストーリーを行くんだ!」って言うたら、みんな「うおーーーーー!」と盛り上がってくれて。…優勝しました。

ーーちょっとあの…皆さんに誤解していただきたくないですけれど、洛南高校の校訓とか、全然こういう感じじゃないんですよ(笑)。それを凌駕する森脇さんの喋りがあってこそだと思います!

(笑)。もともと「僕はプロになる」って決めていたけれど、自信が確信になったような瞬間だったと思います。

陸上部の送別会でも

洛南高校の陸上部は、3月の卒業式の後、そのままホテルに行くんです。陸上部の監督や両親を招待して送別会をするんですね。
その中で、後輩が3年生に感謝の意味を込めて演芸をする習わしがあるんです。
(2年生)「おい、2年もなんかやるから考えとけよ。健児、何やるねん」
(森脇)「漫談!」
(2年生)「漫談?!」
そういった流れで、高校1年生の頃から漫談をやっていたんです。
高校2年生の頃も漫談をやって、高校3年生の時はもう松竹芸能に入っていましたね。

松竹芸能タレントオーディション

ーー在学中に松竹芸能に?!これって…それこそ厳格な中島道雄先生は何ておっしゃっていたんでしょう?そもそも、どう説明されたんですか?

授業中とかにネタを書くんです。本当はいけないけれど(笑)、ネタを書いて。いつも同じクラスの陸上部に松原修という面白い友達がいたんですが、その子にネタを見せて…。
(森脇)「どう思う?」
(松原)「いけるんちゃうか」
せっかくネタができても披露する場所がないから、弁論大会に出たり、文化祭に出たり、必死に自分で舞台を作りにいってましたね。そんな中、松竹芸能っていうプロダクションが「第1回タレントオーディション」を開催することを知って、高校2年の2月に申し込みました。そうしたら書類が通って、次は面接に来てくださいということになり…。
でも僕は練習があるから、指定された日に行けないな…と面接当日も思いながら、ふと空を見上げると、真っ暗だったんですね。

ーーもしかして…?

しばらくしたら雨がブワーと降ってきて。
洛南高校陸上部って今もそうだと思いますが、雨でも練習って中止にならないんですよね。

ーー室内で練習したり?

もちろん。そもそも、雨でも試合がありますから、そういった状況を見据えて、あえて外での練習を中止にはしないんです。
でも、その日は今までの雨とは比にならないくらいの雨だったんです。でも、今まで1回も雨で中止になったことはない。そんな中、中島監督が
「今日は練習中止」とおっしゃった。「雨のため中止」というのが、3年間で1度だけあったんです。嘘みたいな本当の話(笑)。

ーーそんなことあります?!

すぐに京都駅から、新快速に乗って、大阪の面接会場まで行って。そこで漫談をやって、合格をもらいました。

ーー面接に行きますとは中島先生には言わずに?

言いませんでした。雨でしたし(笑)。
後日3月の下旬に本大会がありますと連絡が来たんですが、 その日は八女工業(福岡)と合宿をする日だったんです。最初から(部活が理由で)行けるわけないと思っていたし、高校出てからでも遅くないなとも思っていたのですが、翌日学校に行ったら中島先生から「報告がある。八女工業との合宿だが、宿舎の都合で1日延びた」ということを聞かされて(笑)。

ーーそんなことある?!

中島先生の格好良すぎる言葉

3年間でこういったことは1度もなかったんです。この時に初めて、中島先生にオーディションの話をして、「(オーディションの日が2部練習だったので)昼練習を休ませてもらえませんか?」と言いましたね。あかんかな?と思っていたんですが、 「わかった。行かしたるけれど、条件がある。絶対に合格してこい」と言っていただいて。

ーーかっこいい…!

青春ドラマみたいですよね。そうして受けたオーディションの結果は優勝。合格発表を聞いて、すぐに 中島先生に電話しました。
(森脇)「先生、優勝しました」
(中島先生)「…すぐテレビに出るのか?」
(森脇)「いや、いきなりは出られません(笑)。」
(中島先生)「おめでとう!」

非常に大柄な言い方ですが、実は
「あ、通るな」と思っていた節があって。僕は芸能界にちゃんとレールが引かれているなと思いながら、取り組んでいましたね。やはり、こんなことが2回も続くことってあまりありませんから。

ーー中島先生は厳格な方ですが、生徒ひとりひとりの意志を尊重してくれる先生ですよね。

「(出場したら)あかん」って言われていたら、人生変わっていたかもしれませんね。

しくじり先生のお言葉

20代で「夢がMORIMORI」をやったり、GATSBYをつけて格好つけたり、トレンディードラマで吉田栄作さんと共演したり。芸能界に入って右も左もわからないままがむしゃらに働く中で、やはり中島先生の 「メッキが禿げる」じゃないですけど、30代で急に仕事がなくなって。そこからコツコツとやり直していく中で、オールスター感謝祭に初めて出たのが、2003年の秋でした。初出場で初優勝だったんです。その時にひらめいたのが「この心臓破りの坂の向こうに、芸能界でもう1回残る世界があるのかな」と思いました。森脇健児って、今、全然必要とされていませんが、もしかしたら心臓破りの坂の向こうに、僕の居場所があるかもしれないなとひらめきました。
それが2003年やったけれど、自分自身としては10年かかるなと思って。10年出続けなければならないことはわかっていたけれど、ひらめいてしまったものはしょうがない。根拠のない自信ですね。そこからずっと、陸上競技の900m×4周=3600mの練習メニューを作って、いろんな陸上関係の先生方や選手にもう1度指示を仰いで。3600mのアップダウンを走る練習だけをやりました。今年、18年目になるんですが、今も欠かさず(番組に)出させてもらえているという意味でも、その時のひらめきは間違いなかったと思いますし、中島監督がおっしゃっていた「ウサギになるな亀になれ」ということだったのかなと思います。

やっぱり中島道雄先生

ーー中島先生のお言葉全部が森脇さんの陸上物語、そして人生にリンクされているんですね。

あと、「お前ら走っているんじゃないよ、走らせていただいているんだよ」ということもよくおっしゃっていましたね。「お母さんがいつもお弁当を作ってくれて、お父さんが働いてくれて、そしてこの私立洛南高校に授業料も払っていただいている。だからこそ陸上が出来ているんだ。走らせていただいているんだ」と。
今になって、これがよく分かるんです。芸能界で仕事をする上でも、今日はアナウンサーの庄野君やスタッフさんがいて、カメラさんがいてくれて…みんながいてくださるおかげで仕事ができている。洛南高校陸上競技部の教えというのはボディーに効いているなと思います。

森脇健児の大切な言葉

「ありがとう」ですね。
居酒屋さんとかでもそうですが、バイトの子やお店の人が料理を持ってきて下さる時に、欠かさず伝えるようにしているんです。トイレの清掃をして下さっている方にも。 「ありがとうございます」って言うようにしている。…感じいいでしょ(笑)?

ーー(笑)。めちゃくちゃいいですね(笑)。

昔、鶴瓶さんと、僕が18歳の時に「ヤングタウン」つていうラジオをやった時に「森脇…タレントはな…感じようないとアカンねん」と(笑)。

ーー(笑)。重要です(笑)。

どこに行っても、「ありがとうございます」。
頭を下げることは打出の小槌ですね。

ーー感謝をするというのも、自分を大事にして、社会に貢献するということに繋がってきますよね。

「自己を尊重せよ」、「社会に献身せよ」、「真理を探究せよ」。そして「雑巾の精神であれ」というのも、やはり洛南高校の教えが根底にあると思います。 洛南高校陸上競技部はまだまだ躍進して、今度のパリオリンピックにもすごいことになるんじゃないでしょうか。楽しみにしています!

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