特集2022.05.14

【陸上物語FILE 10 平塚潤】 あの名勝負の裏側に迫る陸上物語

アスリートの生き様を尋ねて全国を回る「陸上物語」。 
記念すべき10人目のゲストは元男子10000m日本代表で城西大学准教授の平塚潤さん。53歳になった今でも「精進」をモットーに、アスリートとしても指導者としても活躍する平塚さんの陸上物語に迫ります!

年代別世界一を目指す現役ランナー

ーー潤さん…(平塚)選手と言ったほうがいいですかね!?
もうなんでも大丈夫です(笑)。

ーー今52歳で、年が明けたら53歳。未だなお、走り続ける現役ランナー。
もう一回真剣にやるつもりはなかったんですけれどね。メタボ時代も城⻄大学監督時代にあったし、健康のために40歳からまた始めてハマってしまって。今もやっているという感じですね。

陸上との出会い

ーーそんな平塚さんの陸上物語。お生まれは茨城県で。陸上はいつから始めたんですか?
我々の世代は野球じゃないですか、Jリーグがなかったので。なので、野球に憧れ
て。なので、高校から陸上を始めて。中学時代は野球部だったんですよ。

ーーちなみに野球はどこのファン?\
ジャイアンツでした。

ーー憧れの選手は?
今の原監督。

ーーそんな野球少年がどうしてまた陸上に?
この体なので、実際にバッティングも全然ダメですし。足が速かったので、守備がうまいぐらいで(選手として)使ってもらえなくて、ずっと補欠だった。
ベンチにいて、守備固めでしか使ってもらえなかったし。それで体育の先生が高校に進学
をするときに、「君は野球じゃないよ。陸上で本気でやれば成功するかもしれない。」とちょっと乗せられた感じで陸上を始めて、今に至るっていう感じですね。

野球少年、陸上に夢中になる

ーー水戸工業高校(に進学された?)
当時、水戸工業高校は(陸上競技が)強い学校だったので、そこに行きなさいと。

ーー今までは野球なので、〝走る、投げる、打つ〟のトレーニングをしていたと思うんですけど、(陸上競技だと)当然、毎日やることが変わってきますよね?
すごく陸上ってシンプルなので、僕の性格に逆にあっているのかなと気づいたんですね。
というのも、野球ってすごく⻑い時間やるじゃないですか。しかし、陸上競技は集中して2時間くらいで終えられる。集中してできるので、自分に合っているかなと。
あまり協調性がないので(笑)。僕の性格からしたら、チームスポーツより個人のほうがいいのかなっていうのを、陸上を始めた高校1年生の時に気づきました。

〝成長が数字で表れる楽しさ〟にのめり込んだ高校時代

ーー陸上競技を始めた頃の平塚さんの目標って何だったんでしょうか?
強くなりたいというのは前提にあったんですけど、まずは茨城県で1番になりたいと思って。それが、最初のスタートしたね。でも、当時無名だったんですが、その目標は簡単に達成してしまって。それから面白くなって、『次は関東で1位になろう』とか。高校2年生ぐらいの時には『インターハイや国体で優勝をしたい』とか、『都大路の1区(を走りたい)』と思うようになっていました。

ーー自己分析されるに、(目標達成には)何が強みだったんですかね?
野球が向いていないというのはなんとなく分かっていたんですけども(笑)。
陸上競技って1、2ヶ月で自分の成長が数字で表れてきて、どんどん伸びる。自分の感覚よりも伸びるスピードのほうがすごくて。『もしかしたら頂点に行けるんじゃないか』と、勝手に脳内で思い始めて。(陸上競技をするにあたって)全部いいことは、取り入れたらやっぱり伸びるんですよ。それが面白くて、どんどん突き詰めていきました。

高校時代の貴重な経験

ーー高校時代はスランプであったり、怪我というものは?
たくさんありましたね。実は僕、高校駅伝3年間、1区だったんですよ。1年生でも1区を走りまして。1年生では走る予定ではなかったんですけど、エースの先輩が風邪をひいてしまって。急遽、(平塚選手の)将来を考えて、先生が『1区を走りなさい』と。1年生には1区を走る力はないですからね、10kmも走るので。2年生になって、その経験が生きてきて、一気に都大路で2番(1区)になったんですよ。いろんな意味で常に、前に前に突き進むっていうことを頑張っていました。

平塚さんにとって駅伝とは?

ーー都大路=全国高校駅伝、そして大学に入れば箱根駅伝。さらに実業団に入ればニューイヤー駅伝。日本の最高峰をずっと渡っていかれる訳ですけれど…平塚さんにとって〝駅伝〟とは?
唯一のチームスポーツですが、結果的には(駅伝も)〝個人〟じゃないかなって。(各区における)責任があるので。最後の(区の)数秒で、チームの順位が変わってくるので、チームスポーツという感じはする。けれど、個々の練習だったり、走り出したら〝個人〟なので。
僕的には自分の性格に合っているな、と。役割を持ったものに対して、追い込めば良いという考えなので。

エスビー食品株式会社 陸上部に入部

ーーそんな箱根のスターは、エスビー食品に入られて。これは、どういうご縁だったんですか?
実は僕、(陸上競技を)大学4年間で辞める予定だったんですよ。全国高校駅伝で2年生の時は区間2位だったんですけど、3年生は疲労骨折でダメだったんです。ゴールして、京都市内の病院に運ばれて、疲労骨折している、となってギブスで帰ったんですけれど。
その後、日本大学に入学をして、箱根駅伝は1年生から走りましたけれど、なんだか自分の全盛期の走りのリズムが取り戻せないなっていう感覚があって。実業団に行っても通用しないだろうなと。インカレとか箱根駅伝は出ていましたけれど、茨城に帰って教員をやろうと思っていました。(自分自身の気持ちの)8〜9割は、大学4年生の春までと思っていたのですが…、いろんな企業を見て、最終的には関東のエスビー食品に。自信はなかったので、実は当時、限定付きでお返事を出したんです。今でも覚えていますけれど、『3年間で日の丸をつけられなかったら僕は(エスビー食品を)辞めて、ふるさとに帰ります』と。(先方が)それでも良いということで、私は進みましたね。ちょうどギリギリ、(入社)3年目で世界陸上に出られたので(笑)。そのつもりで勿論やってはいましたけれど、シニアになるとやはりレベルが一気に上がるので、かなり苦労しました。

シニア世代のレベルの高さ

ーー先ほどの話を振り返ると、高校時代、〝やればやるだけ伸びていく〟というボジティブなイメージを持たれていた平塚さんが、シニアの世界ではそんなに消極的な考えをもたれてると思いませんでした。
壁がすごいなと思ったんですね。ある程度まで行くんですよ。日本の5〜6番とか、10番以内までは、私自身も1〜2年で(結果を出して)来た。でも、オリンピックや世界選手権って、(上位)3人じゃないですか。しかも世界水準を達しなきゃいけないので、常に上位3人ぐらいにいないとダメ。その壁を2年ぐらいでなんとか詰めていったっていう感じで。それが苦労しました。

ーー自己分析をされる能力が、もしかしたら他の選手よりも高かったのかもしれないですね。
どうなんですかね、失敗もたくさんしましたし。でも、世界選手権に出られた年は練習したことが全部完璧にできたので、負ける気がしなかったですね。

〝壮絶な練習量〟と〝広島アジア競技大会男子10000m〟

ーーその翌年のアジア大会で銀メダル。
そうですね。(アジア大会で銀メダルを獲得したのが)24〜25歳ですから、1番人生で体が動いた時期が、24〜26歳ぐらいだったのかなと思いますね。今は想像つかないですけれど、よくあんなペースであんな練習ができたなと。何十年前の練習日誌を大学の研究室とかに置いてあるんですが、(練習日誌を)見ると、『うわあ、えげつないことをしているなぁ』と思って。今はできないですけれど。(笑)
ゼミ生でも駅伝部の学生がいるんですが、やっぱり(当時の)タイムとかを言うとびっくりしますし、彼らの刺激にもなるので、たまに話したりもするんですが。非常に突き詰めてやった2〜3年間だったなと思いますね。

「あの名場面」の超裏話

ーーそこでデットヒートしたのが高岡寿成さん。
高岡に勝ちたかったのはありますし、今話すと、サウジアラビア代表の13分20秒台
(10000m)の選手がいて。その選手を振り落とすために、スローペースじゃないほうがいいんじゃないかという話になって。そこで、1000mずつ引っ張り合いをして、最後の8000mは余裕のあったほうがいこうと、カネボウの伊藤国光監督や瀬古さんとかを含めた日本の監督同士で話をして。普通、そんな話はしないじゃないですか(笑)。

ーー密談があったんですか?!(笑)
当時のTBSの映像を掘り起こせばあると思うんですけども(笑)。
あの日は雨だったんですけど、(試合開始時は)雨が上がったくらいだったんですね。そういった天気だったので、日本中の運動会が中止になっていたから、みんな試合を生中継で見てくれていたんですよ。僕も、高岡もテンションが上がっていて。やっぱり、忘れられない試合ですね、これは。

ーーサウジアラビアの選手を、日本人選手、2人で結託して倒そうと。
最後はもうマッチレースになったので。決着が着いたのが、ラスト100mですよね。とてつもないスパートでしたね、彼は。

ーー今も語られる名勝負。年齢でいうと、高岡さんが2歳下ですよね?高岡さんのどんなところが強いんでしょうか?
まず僕より身⻑が高い(平塚さん167cm、高岡さん186cm)ですし、スタイルも大きいので。高岡に勝つには、ラスト1周までいったらダメなんですよ。高岡に勝ったことは何回かありますけれど、ラスト1周の前までで決着がついているので。やっぱり、鐘がなる時には高岡にはスピードがあるので、勝てないですね。

オリンピックに懸けた陸上人生

ーーアジア大会での銀メダル獲得、その後のご自身の中で目標はやはり…?
最終的にはオリンピックに出るために、と入社した時から決めていたので。陸上でいうと、アジア大会と世界陸上で日の丸を背負うことと…やはり、1番の目標としてはオリンピアンになることだったので。1996年にアトランタオリンピックが開催されるということで、1番はそこに出たいというのがありました。27歳ぐらいだったから、まだ体も動いていましたし。チームにも、花田勝彦とか渡辺康幸といった強い選手がいたので、彼らと一緒に練習したり、彼らと勝敗を競っていれば、自分自身の日本での立ち位置というのが明確に分かって、すごくやりがいもありました。キツイんですけれど、このチームで上位にいればオリンピックに近づくんだろうなという思いで常にやっていましたね。

四半世紀を超えてもなお蘇る〝悔しさ〟

ーー環境は整っていた。
その上で、アトランタオリンピックへの挑戦を振り返っていただけますか?

結果としてオリンピック参加標準記録は切っていたんですが、1996年の日本選手権(長居)で…。YouTubeでもよく〝伝説の日本選手権〟として流れている試合なんですが、今の学生もそれでなんとなく僕のことが分かるような感じの、凄い映像が残っているんですが…正直ですね、あの時、4位でオリンピックに行けなかったというのを、今でも引きずっています。ラスト1周で日本人が4人いて、ラスト200mでも4人いて。高岡、花田、渡辺、僕(の順番)で。渡辺から遅れるほど1〜2秒だった。今は当時ほどではないですけれど、オリンピックになんで行けなかったのかなあ、と。ライバルには恵まれたというか、強い選手ばかりだったので。それ以外にも高尾健司くんがいたりとか、本当にたくさんいました。あんなに強い選手が集まった年代はないんじゃないかな。

その4人で競っているものですから、ラスト200mのところで渡辺くんが僕をまくる時に、彼の足は⻑いので、僕の足に当たるんですね。当たって、僕が体勢を崩してしまったんですよ。(2人とも同じくらいの力なので)僕が、1歩横に行ってしまって。(当時は)人生で絶好調だったのを覚えているので、あれがなかったらなあ、と。結果論ですけれど。いろんなことがあって結果的には4番で。転びそうになったのも僕の実力ですし。でも、あの映像はずっと見たくなかった映像なんですよね、実は。

ーーもう25年、四半世紀前のことですが
それぐらいオリンピックに賭けてたんですよね。
一瞬、引退も考えました。区切りをつけて、水戸に帰って、教員でもやろうかなとも思ったこともありましたけど、(大会後に)いろんな人と会っていく中で、『4年後に開催されるシドニーオリンピックまで頑張ってみよう』と思ったのが、(日本選手権大会から)1ヶ月経ったくらい。1996年の夏頃にはもう、元気に走っていましたし、自分には陸上しかないのかなというのが前提にあったので、もう少し頑張ってみようと。
ただ、30歳を超えた時に…ちょうどシドニーオリンピックの頃ですかね。何か、今までのタイムが出るには出るんですけれど、感覚とか疲労とか、いろんなことが少しずつずれが出てきて。いろんなことを考えている時に…。

再びオリンピックを目指した矢先、最愛の父と恩師が天国へ

父親が当時53歳で、他界しまして。弟から「親父が倒れた」と一報があった時、北海道の網走で合宿をしていたんですけれど、合宿を引き上げて急いで実家に向かってから数時間後に息を引き取ったんですね。父親も生前、「最後は教員になって帰ってきてほしい」って毎回言っていて、遺言じゃないですけれど、その辺で少し考えるようになりました。
その後、自分を育ててくれた高校の先生も父親と同じ歳で2000年の2月に他界しまして。自分の親と恩師を同じ年度に亡くしたんですが、恩師も「水戸に帰って俺の後継者になれ」って、飲むと毎回言うんですよね。

そういった2人のメッセージが常に自分の中にあって。ちょうど悩んでいる時に、今、勤務している城⻄大学から『箱根駅伝を強化するので、教員として監督として(来てください)』というお話があって。(その話を受けるかどうか)半年から1年かけて悩んだ結果、社会人で大学院にいって、31歳で現役引退をして、32歳から今の大学に勤めています。

親父を亡くした時は、本当に…。当時は現役なので、走らなきゃいけない(練習しなきゃいけない)。けれど、足が今でも覚えているんですけれど、すごいもう…前に進んでいかない。気持ちも(前に進んでいかない)。思い出すとね、今でも泣いちゃうんですけれど。今でも親父がぽっと出てきそうな気がしているんですが、あの時はまだ29歳。キツかったですね。身が入らないとはあのことで…ずっと(父親が亡くなったことを)考えていて、四十九日が終わってもパッとしなかったですね。

城西大を初の箱根へ導く

ーーそして、考えて決断を出して。今度はまさに、大学生たちの〝親父〟になる。
そうですね。母校の日体大のように箱根(駅伝)に出ているわけではなく、(城西大学は)全くレベルが…。ゼロからというよりもマイナス…というと語弊がありますけれども、何にもないところから作っていったので、大変でしたね。

ーーご自身の出身校である日体大の白いユニフォームではなく、今まで見たことがない城西大学のユニフォームを着た選手たちが並ぶ、(その光景をみた)その時の気持ちはいかがでしたか?
いやぁ…やっぱりですね、自分が走った時以上に緊張をしました。予選会、箱根駅伝初出場の時も…初出場の前日は、ほとんど1時間くらいしか寝てませんでした。寝られないですね、寝た覚えがない。

ーー試合前には選手達にどんな声を掛けましたか?
そうですね(笑)。みんな緊張しているので、うちは挑戦者だからリラックスして楽しんでこいっていう話をしたと思います。優勝するようなチームじゃないですし、まずは箱根駅伝のあの雰囲気を自分たちのユニフォーム、タスキでゴールするというのが目標だったので。そこにいるだけでもすごい(名誉のあること)。初出場で実質最下位だったので、負けたのは勿論、悔しかったけれど、彼らにはいい経験をさせていただきました。

引退しても〝アスリート〟

ーー31歳で現役を引退して、監督で箱根に初めてのチームを連れていって。もう走らないのかなと思ったら、まだ走り続けているじゃないですか、平塚さん!
(きっかけは)健康を考えて。実は、昔の画像とかを見ると今より12キロぐらい太っていたんですよ。それがすごく嫌で。皇居を帽子をかぶって、誰にも見つからないように、皇居を2周ぐらいのレベルから始まったんですよ。ただやっぱり、アスリートの血がいつの日か騒ぎ出してしまったという感じでしょうかね(笑)。

ーー40代後半からずっと、マラソンの年代別記録更新されて。
やるつもりはなかったんですけれどね。後に引けなくなってしまったというか…(笑)。

世界マスターズへの挑戦

ーー今の目標ってなんですか?
今はコロナ禍で、マラソン(レース)がコロナ禍で延期続きなんですが、トラックの大会は出られるので。昨年3000mのマスターズのM50というくくりなんですが、(マスターズが)5歳きざみなんですけれども、その世界記録が8分42秒なんですね。それを抜いてやろうと思って。去年、北海道まで行ってチャレンジしてみると、8分46秒7だったんですよね。
日本記録は19秒塗り替えたのかな。何か目標がないと頑張れないと思ってやっているので、今年もチャンスがあればやってみたいなと思います。

父からもらった大切な言葉


(色紙を指して)〝精進〟という言葉を大切にしています。現役時代にもよく書いていたんですが、自分の亡くなった父親が〝進(すすむ)〟っていうんですよね。父親の戒名の中に〝精進〟という言葉が入っていて。そこから、(精進という言葉が)自分へのメッセージなのかなと。どんなことがあっても、親が天国から「前に進んで行きなさい」というメッセージを送ってくれているのかなと思って、今でも心の中にこの言葉がずっと残っています。嫌なことも沢山経験しているし、壁に当たったこともいっぱいあります。でも、それも父親からのメッセージなのかなと思いながら、常にこの言葉を胸に秘めて、いろんなことに頑張ってチャレンジしていきたいと思います。

次の目標は〝世界記録〟!

ーーその〝精進〟の1つとして、マスターズ3000m(への挑戦)?
そうですね。3000m、5000m。

ーー2冠ですか。
2つ、やりたいと思っています。世界記録が、3000mが8分42秒、5000mが14分52秒。だいたい僕の(記録)をさかのぼると、高校1年生の終わりぐらいの走力に戻すという感じですかね(笑)。

ーー53歳が17歳ぐらいの元気さになれば?!(笑)
もちろん、実業団の時の記録は抜けないので。ちょうど陸上を始めて、自分の伸び盛りの時
期の記録がそのぐらいなので(笑)。それに戻すのは非常に大変なんですけども、それにチャレンジするということですね。

ーー平塚さんには失礼なんですけれど、多くの中年の方を励ましたと思います!(笑)
ありがとうございます(笑)。

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