16人目のゲストは箱根駅伝のレジェンドであり、2018年に立教大学陸上競技部の男子駅伝監督に就任した上野裕一郎監督。
佐久長聖高校時代から中央大学、実業団、そして指揮官になった今に至るまでについて、たっぷりとお話を伺いました。
瀬古利彦さんから教わったこととは?“日本一早い指揮官“の異名を持つ上野監督が今、大切にしている言葉とは?ロングインタビュー、必見です!
目次
MARCH(マーチ)対抗戦で監督がペースメイカー!?
ーーまずは箱根の予選会、そこからのマーチ対抗戦、お疲れ様でした。
ありがとうございます。
ーーまずはマーチ対抗戦について。MARCH(マーチ)対校戦とは、どういった経緯で出来た大会なんでしょうか?
立教大学がまだ陸上競技の長距離に力を入れていなかったので、MARCH(マーチ)が同じスタートラインにそろっていなかったんです。
ですが、(立教大学が)最近トラック(陸上競技)でもタイムが出始めてきて、私が入って強化もされ始めて…。(青山学院大学監督の)原さんから「今年の夏以降、長距離種目で対抗戦をしない?」という話が各監督に来ました。そこから「面白いですね。期間と距離を決めることから、始めていきましょう」という話になって、あそこまで大きくなったという感じですね。
ーー私もAbemaTVで拝見しましたけれど、あのきらびやかな演出の中で、ああいう大会があるっていうのは選手にとってはどうなんでしょうか?
ライトアップがされている中で走ることは、雰囲気もすごく良いですし、楽しかったんじゃないかなと思います。
少しでも華やかであれば、やはりテンションが上がる部分はありますからね。実際に選手に聞いても「楽しかった」と言っていました。
ーー5チームの中、立教大学は5番目という結果でしたが、得たものはありましたか?
スポーツ推薦ではない4年生の斎藤俊輔(選手)が28分32秒53(10000m)というタイムを出して、立教(大学の)記録を更新してくれたり、2年生のスポーツ推薦で入ってきた子たちが28分40秒という記録を出して、斎藤(選手)の前にも記録を更新してくれました。
チーム一丸となって上乗せしていけたというか。タイムの上でも良かったですね。4組終了時点(全5組、合計タイムで競う)で、法政大学より前だったというのもチームとしては、すごくテンションが上がった瞬間でした。
5組目には斎藤しかいなかったので、そこから抜かれるなとは分かっていましたが、ずっと5番ではなく、一瞬でも4番目になれた。それも箱根駅伝、全日本駅伝も走っているような大学よりも1個前に行けたということは、みんなの糧にもなったのではないかと思います。
(提供:「立教スポーツ」編集部)
ーー上野さんも走っていたようにお見受けしたんですが?
あ、走っていましたよ。ペースメーカーとして3組目で。
ーーどういうことですか?監督がペースメーカー?
「ペースを作れる人いないか?」という話題がミーティングで出ていたので、「あ、28分30から40秒ぐらいのペースだったら、8000mぐらいまでだったら僕(上野監督)いきますよ。」という提案はしていて。
じゃあ、3組目(後の組ほど速い選手が出場)の28分50から55秒ぐらいの設定になると思うから、2分53から54秒ぐらいで走ろうという話になって…。最初は5000mという話だったんですが、「行けるところまで行きます」という話になりました。全然、ゴールまで行ける感覚はあったんですが、「選手たちメインの大会だから1番でゴールしないでくれ」って言われていて(笑)。
「選手たちのためになったら嬉しいな」と思いながら走っていましたね。
サングラス、徳本さんに憧れて
ーー別部読売マラソン(2012)で20kmのペースメーカーをされていましたよね?
はい、しました。
ーーあの大会ではハーフマラソンぐらいの距離を走られましたが、どうして出場されたんですか?
とりあえずマラソン競技に繋げないといけないと、という思いがあったので、まずはマラソンの雰囲気を味わいたかったんですね。
あとは、5000mや10000mを走り切るにも、20kmを3分/kmぐらいのペースで走れないとだめだなと感じていたので。
ーー同じ大会に徳本さん(元法政大学)も出られてましたよね?当時から交流はあったのですか?
当時からありました。元々私がサングラスをかけ始めたのも徳本さんからの影響ですし、私の世代の1世代前の1つ上の憧れが徳本さんでした。
箱根の徳本さんほど目立てなかったですけれど「あの人に近づけたらいいな」と思って頑張っていたので。徳本さんって、本当に色々と積極的に「抜けていく」イメージがあります。「なんでも特化していこう」みたいな…。
格好でも走りでも。僕の場合はどちらかというと消極的というか、そんなに表面に出していくタイプではありませんでしたので…。目立ちたい!というのはあったけれど、一線を引くところは引いていた(笑)。徳本さんは、いい意味で一線を引かないんですよね。それが現役の時に目立てるか、目立てないかの差だったんじゃないかなと思っています(笑)。
長野・佐久長聖高校時代
ーー高校1年生でいきなり都大路にて「2区区間賞」を受賞されました。
その前に色々とエピソードがたくさんあるんですけれど、話せばたくさんありすぎて…(笑)。まず、高校に入ってから、初めて3000mを走って。その時の記録が8分40秒だったんですね。
「もしかしたら…」と先生は期待されたみたいなんですけれど、そこから貧血になってしまって。国体に3000m少年B(高校1年生・中学3年生)に出たんですが、組でビリ。総合でもビリで。そこまで長野県で2連覇していたんですが、3000m少年Bを僕が崩してしまって。そこからは、怒られては貧血になり…の繰り返しでしたね。
夏合宿でも、怒られながらも走らないといけない、そうかと思えば、また貧血。本当に大変でした。それ(貧血)を抜けてようやく走れるようになったと思ったら、今度はギックリ腰を2回やって(笑)。それでも「なんとか3kmぐらいだったら」って話で、我慢して練習をしていたら徐々にペースが回復してきて。いざ本番、都大路本番を走ると、8分16秒(2区=3km)という記録が出たんです。そこからですかね、流れが徐々に変わってきたのは。
ーー全国の初めての舞台に立った時、自分が1位で走り切るイメージは出来ていたんでしょうか?
いや、全く!区間上位でしっかり繋いで、市村一訓先輩(佐久長聖高・現コーチ)に繋げようと必死に走っていただけなので。
ーー2年生になった時には、1期下に佐藤悠基選手(元東海大)が入ってこられましたよね。上野監督にとって彼はどんな存在だったんでしょうか?
彼が中学記録保持者(3000m=8分24秒24)として入ってきた頃というのは、僕も力がついてきていたので「負けたくない!」という気持ちが芽生えてきていた時でした。
そんなときに悠基が入ってきてくれたので、最初は彼の方が全然速かったんですけれど、一緒にやっていくうちに、(自分のタイムも)良い感じになってきて。
悠基の存在は今でも意識しています。というのも、悠基は35歳になった今も未だ現役で頑張っていますので。僕も頑張っていかなければと思っています。
ーー全国都道府県対抗男子駅伝で、長野県を優勝に導いたり、インターハイ、国体、いろんな大会で活躍されましたけれど、高校3年間を通して上野さんのベストシーンって何ですか?
ベストシーンはやっぱり、全国高校駅伝の1区(日本人区間最高記録/高校3年生)と、その前の夏のインターハイ1500m、5000mの日本人トップ。この2つですかね。
私は調子に乗ってしまうタイプなので(笑)、褒められた経験が高校の3年間であまりなかったんですよね。というか、ほぼない(笑)。僕にとっては「怒られなかった」ということが「褒め」に値することなので(笑)。
そういうふうに認識して頑張っていたし、「先生の言うことを聞いていれば、日本一になれるんだ」と思ってやっていたので。そういった前提をふまえた中での「インターハイ絶対勝ってこいよ、2種目」、(都大路も)28分台(10km)というより「日本人最高タイムで区間賞を取ってこい」という両角先生からの強いメッセージ。そのメッセージを達成できたことがすごく良かったですし、実際、その年は日本人にほぼ負けていないんですよね。
自分の中のモチベーションとして持っていって、先生もそのモチベーションをつなげて下さった。本当に、高校3年生の時は全てが記憶に残るレースと言っても過言ではないんです。1日1日が自分にとっては試練だったので…生活から試合から、全部。全部が自分のベストレースですね。
ーー本当は褒めたいけれど、その気持ちを抑えていたのかもしれませんね。
中央大学エースの箱根秘話
ーーそして今、逆の立場で、「指導」をされている。指導者としてのお話は後ほどお聞きするとして…。鳴り物入りで中央大学に入り、4年連続で箱根路を駆け抜けられました。しかし、1年生の時にブレーキを起こして区間19位(1区)。この時の気持ちはいかがでしたか?
なるべくしてなる結果だったのかなと思います。怪我もしていましたし、練習も積みきれていませんでした。あとは、ちょうど反抗期だったので(笑)。反抗して色々ガチャガチャしていた時期でもありましたね。
ーー今だから言えることとして…どんなことを?
正直、高校の時に、両角先生が厳しく縛って下さっていた分、大学に来て羽を伸ばす選手が多いんですね。今でもそうだと思うんですけども、そういった流れに乗ってしまって。
陸上を見失いかけていた時期でもありましたね。箱根のブレーキがあったからこそ、(陸上を続ける)目的を改めて見直せたんじゃないかと思っています。
そういった背景もあるので、あのブレーキ自体は、一概に悪いことだったとは思っていなくて。自分の陸上人生を陸上物語として繋げてくれたと思っています。もちろん、反省はしないといけないと思うけれど、後悔はしていません。改めて陸上を続けるにあたって、とても大きな分岐点だったと思います。
ーー箱根駅伝で1番記憶に残っているシーンは?
やっぱり区間賞(3年生・3区区間賞)とかよりは、4年の時に箱根駅伝で「誰にも抜けない区間新記録を出して、区間賞をとりたい」という思いが報われなかったことですかね。目標に向けて、普段より練習量を増やしたり、自分なりに色々と取り組んでいた中で、免疫力が下がっていたのかもしれないんですが、直前に謎の体調不良に見舞われてしまって…。風邪とかではなかったんですが、ずっと38度前後の熱が続いていたんです。
当日も38度少しあった状態でスタートしていったので…。本当はメンバーを変えたほうが速かったと思いますが、「この状態でもチームを前に押し上げるから」と話して走らせてもらって。結局、区間2番だったかな。竹澤健介(元早稲田大)に負けてしまって。区間賞を取れなかったというのは悔しかったですね。
あの後、40度ぐらいまで熱が出てしまって、病院に運ばれたりと大変だったんですが、それよりも、「とてつもない記録」を残せなかった悔しさのほうが記憶に残っていますね。万全の状態でスタートラインに立てていれば、61分台(21.4km)を出せたんじゃないかと。
今は(61分台)特異なことではないのかもしれませんが、当時、61分30から40秒で走ることって、とんでもないことだったんですね。
でも、自分の中ではあのタイムを狙っていたので、いけたのかなという気持ちがありました。そういった背景を踏まえた上で、とてつもない記録を出せなかったというのが唯一、箱根での「悔い」かなと思っています(区間2位63分52秒)。
ーーただ、38度の熱が出て区間2位ですよ。個人種目だったらそこまで発揮できないような「タスキの力」があったんでしょうか?
やはり、「自分が順位を上げないと」という気持ちや、カッコよく走ること、タイムを出すこともエースの役割ではありますが、1番は「チームを不安にさせないこと」だと思うんです。(レースが揮わなくても)自分のところで流れを変えないといけませんよね。
それが出来るのは、(当時の中央大では)私しかいないと思っていたので、形だけでも保てたっていうのはギリギリ良かったことかなと思っています。だからこそ、今、箱根駅伝に立教大学を導いて「選手たちに早く箱根路をフレッシュな気持ちで走ってほしい」という気持ちはすごくありますね。
瀬古利彦氏から贈られた言葉
ーー箱根路を4年間駆け抜けられて、3年生の時に区間賞以上に1年生の時のブレーキ、4年生の時、高熱を出しながらタスキを繋いだ。そのほうが印象的だったという言葉が心に残っているんですが…。そんなことも経験して社会人になり、エスビー食品に入社。これはやはり、田幸監督(中央大時代の恩師)がきっかけだったんでしょうか?
私が瀬古利彦さんという指導者に見てもらいたかったというのと、指導者として大変な手腕をもった方と時間を共にしてみたかったというのが、1番大きいですね。
ーー(田幸監督が)中央大学の監督からエスビーに?
たまたま任期更新の時だったのか、田幸さんから「一緒にまたやれるから」と連絡が来たんです。最初、何が何だかよく分からなくて…(笑)。「俺は中央大に戻らないですよ?!」なんて答えたのですが(笑)、よくよく話を聞くと「エスビーに戻るから」という話で。前監督の武井隆次さんが退いて田幸さんにバトンタッチし、また一緒に歩みを進めていくというスタイルになりました。
ーーエスビー、DeNA時代も含めて、瀬古さんに言われたことで印象に残っている言葉はありますか?
「人と人との繋がりは絶対的なものだから、簡単なことで人を裏切っちゃいけない。裏切るような行動もしちゃいけない」という言葉です。陸上競技も1人では出来ませんよね。技術的な指導というよりも「人と人との繋がりを大切にしろ」ということを大切にされていたように思います。
合宿に行っても、試合に行っても、いろんな人と繋がっているわけで。自分1人のわがままで人を振り回したり、人を裏切ることって簡単ですけど…そうではなくて、人への感謝を忘れず人と繋がっていくことを大切にしろと常々言われていて。陸上の指導の前に、やはり私も「人としての指導」が大事なのかなと思っています。
両角先生もそうだったんですよね。人間性というのを大切にされていたと思います。そういう価値観をお持ちのところこそ、僕が瀬古さんを好きな理由です。
試練を乗り越え世界陸上へ
ーー良い環境で練習を積まれて、2000年に日本選手権1500m、5000mで2冠。これは24年ぶりの快挙でしたよね。この年はご自身の中でも何か違いましたか?
タイム(オリンピック参加標準記録)はちゃんと持っていたんですが、結局、箱根駅伝の体調不良が尾を引いてしまって、北京五輪に出られなかったという辛い思い出がありました。そういった学生の時からの色々な思いが交錯していたので、なんとしてもまずは世界陸上に出たかった。
「オリンピックに出る前に、まずは世界陸上」という方向で田幸監督、瀬古さんと話してきて。(世界陸上出場を)掴める位置にはいたので、そこに照準を合わせていました。
また、少し若いんですけれど、その年に結婚をしていたので…。今も子ども3人と家のことを妻に任せてしまっています。そういう中で、将来ずっと一緒にやっていくパートナーに「日本選手権で優勝をして世界陸上に行ってくるからね」と伝えたかった。
そういうのも含めて…プロポーズでもなんでもないけれど、かっこいいところを見せたいという気持ちも少しありましたね。というか、そっちがメインだったかな(笑)。
ーー上野監督は本当にご家族を大切にされている印象があります。この場で奥様に一言。
妻とは十何年連れ添っていますが、本当に感謝しています。いつもありがとう。本当、すみません…なんか(笑)。
ーー陸上に話を戻しましょうかね(笑)。そんなこともあって2009年(日本選手権)5000mはビタン・カロキ選手と競って…という展開でしたよね。
あのレースでは、カロキはOP参戦でした。なので、カロキというよりは日本人にしっかり勝って、日本人のトップをとれば世界選手権も決まるという状況だったんですね。
1学年下に竹澤健介もいましたし。そういう中で、まず「勝つ」ということをメインに考えていました。日本人に勝たないと、世界陸上に行けませんから。そういった状況でカロキが前後してくれたので、すごく良いアシストをしてくれたと思っています。
ーーそしてつかんだ、ベルリン世界陸上への出場。結果的には予選敗退でしたが「世界の壁」というのを感じられた経験だったのでしょうか?
そうですね。やはり、世界陸上のスタート地点に立った時に、頭の中が真っ白になっちゃって。結局、無駄に先頭を走って、他の選手に抜かれた時には、もう僕はなかなか順位も動かない。
そんな中、彼らは400mを64秒から65秒で走り、息も全く乱れていない。最後の1000mの叩き合いで、やっと彼らは少しキツイなという感覚をもつのだろうと思いますが…。そこで世界との差を経験してしまって、自分が今後どういう目的をもって、陸上選手として何をやっていかなければならないのかが明確になったというか。
ちょっと絶望しながらも、そのあたりが明確にはなった経験ではありましたね。
エスビー陸上部、廃部に
ーーエスビー食品時代で見ると「廃部」を経験されたということで…。この知らせはどういうふうに聞かれたのでしょうか?
会社としてもすごく利益があった訳ではない中、私たち陸上部にすごく大きな出資をしていただいていて。(経済的に)少し厳しくなってきたという話はちらほら耳にしていたのですが…。夏に北海道合宿をしていた時に「8月31日に会社から話があるとのこと。社長も来られるそうだ」ということを聞かされて「あ、これは良くないな…」と思って。
スタッフは知っているようでしたが、選手は「なんだろうね」みたいな。今後の話なのかな?色々と規定が変わりますという話なのかな?と思っていたら、「今年度で廃部にします」と伝えられて。隠しても仕方がないということで、瀬古さんが直球で話してくれました。
ーー率直にどう思われましたか?
仕方がないというか…。それが会社の方針なのであれば私たちがそれに反抗しても変わりませんから。
でも、最初に感じたことは「5年間、ありがとうございました」という気持ちでしたね。良いことも悪いこともいつも共にしてくださった会社だったので、その時に瀬古さんが「俺がなんとかするから、みんな待て」と。
指導者とスタッフ含め、選手たちに「俺がなんとかするから、俺を信頼して待て」と言ってくださったんです。その器の大きさにみんな、安心していた部分はありました。少し心配はしていたものの「瀬古さんを信じたい」と。
「人は裏切ってはいけない」が彼の教えでしたから。ですから「絶対に瀬古さんを信じて待とう」とみんなで話して、色々と自分たちなりにやっていたことを覚えています。その「待っておけ」の答えがDeNAでした。
DeNA陸上部、初代主将
色々な会社からお声掛け頂いたみたいなんですが、最後の最後でDeNAからお話がきて、採っていただくことになりました。
DeNAは5年プラス1年でしたね。エスビーの時は食品の売り上げで確実にいく感じで…華やかというよりは、家庭的な感じがありました。ですが、DeNAにきて、急に華やかになったので、色々な部分に期待をしながらも、自分たちも結果を残していかなきゃという気持ちがありました。
やはり、廃部を経験しているので。廃部にならないにしても、私たちは走れなくなったら終わり。廃部以上に怖いものがあるんじゃないかと思いながらも一生懸命にやっていた6年弱でしたね。色々な事を経験させていただきましたし、楽しかった6年間でした。
実業団陸上部の未来
ーー初代キャプテンにも任命されて、チームを引っ張っていかれたと思いますが、ここで上野さんにお聞きしたいのが、実業団という枠組みが今後どうなるんだ?というところで…危ぶまれるような声も出てますが…。
どんなに大きな会社でも「会社の方針」というのが絶対にありますので、今後も大丈夫だとは言い切れません。エスビー食品も日清食品も、誰が見ても廃部にならないようなチームだったんです。けれど、結局廃部になってしまった。
八千代工業もそうですが(2021年度で活動休止を発表)…。「絶対」というのはどの会社もないんですよね。「うちは辞めないよ」と思うかもしれないけれど、いつか「あの時ああ言ったけれど…」みたいな企業が出てきてしまうこともあります。駅伝をしっかりサポートできる企業が日本の場合、「結果を出せる企業」というイメージがあると思います。
長離種目はスポーツ界において、まだ恵まれて競技が出来ているほうだとは思います。ですが、もっといろんなアスリートが活躍出来る場、陸上競技以外にも、そういうところをもっと世の中に増やしていけたら嬉しいかなと今は思っています。
駅伝がすべてではありませんが、駅伝1つにしろ、個人種目1つにしろ、しっかり評価をしてもらってスポーツをやることによって、いろんな方に勇気をわたすのが私たちアスリートの仕事だと思うので。普通はできないことも、アスリートなら出来るということもたくさんあると思うんですよね。
そういったアスリートの価値という点において、もう少し評価して頂けたら嬉しいなと思います。
指導者として、伝えたいこと
箱根駅伝を上位校で走っている大学に関しては、各学年2から3人、多ければ4から5人と実業団にスカウトしてもらえますが、まだまだ発展途上の大学の子たちは3年生になったら就職活動を始めないといけないんですね。
結局、ほとんどの人は競技を続けられません。陸上を続けられる人のほうが少ないし、陸上を辞めたあとの人生のほうが長い。
大学で辞めた場合、残り40年以上、社会人として働いていかないといけませんよね。私が監督を務める立教大学は知名度もありますし、いい学校なので、少しでもいい会社に就職させてあげたいという気持ちも、もちろんあります。
現役の時に考えたことがないことも、今は考えていますよね。その上でも、やはり、この4年間で少しでも人間性を高めてあげたいという気持ちがあります。社会に出た時に苦労しないように4年間指導していきたいと思っています。
挨拶も、礼儀も…どれだけの人が君1人のために関わってやってくれているのかという…。社会に出てもそれは一緒だと思いますし、その重みをしっかりと学生時代のうちに気づいてほしいなと思います。ご両親が学費から寮費、ウェアやシューズ…そういったお金を全部出してくれて陸上をやれているということを、まず1番に学生たちは感謝しなければいけない。それが大学生の基本です。
自分もいつか親になった時、ありがたみがすごく分かると思うんですが(笑)、人間的なところをしっかりと育てて、社会に送り出してあげるというのが私の役目です。
強豪実業団に送る使命も大切ですが、それよりも「この4年間でいいことを学べたな」と思って立教大学を卒業してもらうこと。そして、社会にはばたいてくれることが1番大切なことだと思います。指導者になった時からずっとこのように思っていますね。
駅伝監督就任の経緯
ーー2018年12月に立教大学の監督になられたんですよね?
現コーチの林さんという方がいるんですが、実はその方と同じマンションで。
彼とはランニング仲間だったんですが、その繋がりで…。彼から「〝立教箱根駅伝2024〟を始めるんだけど、その指導者を探していて…」という話を聞きました。
私自身、廃部も経験していて、年齢も年齢で、セカンドキャリアについても考えなきゃいけない、そんなタイミングだったんですね。
セカンドキャリアを考えた時、私は指導者としてキャリアを築いていきたいなという思いがあって。この思いは、実は実業団に入った時からなのですが「全ては世の中はタイミングだ!」と思い、「私じゃだめですか?」と話をしました。そこから、林さんに持ち帰って大学に話をして頂いたところ、「お願いします」という形になりました。
立教箱根駅伝2024
ーー「立教箱根駅伝2024」というのは、ちょうど2024年に立教大学が創立150周年を迎え、箱根駅伝も第100回大会になるタイミングであったという…。半世紀、立教大学は箱根路をタスキでは繋いでいないんですよね。MARCH(明治、青学、立教、法政)の中でも青学が出るようになって…。青学が出る前は「青学も出ていないから良いかな」と思っていたけれど(笑)。多くの立教大学OB・OGたちが願っていた”一大プロジェクト”、それが立教箱根駅伝であり、それがまさか、同じマンションのランニング仲間から出た相談だったとは!
そうですね(笑)。本当に「人との縁は大切なことなんだな」と改めて思いましたね。
ーーやっぱり、上野さんと言ったら真っ白のランニングに赤い「C」の文字。「中央大学」というイメージがある中で、そのあたりはいかがでしたか?
中央大学にはお世話になりましたし、母校として今も「また箱根駅伝で優勝してほしい」と思っています。藤原正和さん(中央大学OBで現監督)というすごい経歴の持ち主(世界陸上にマラソンで3回出場)の方が監督もされていますし…。(藤原さんは)指導者としても、誰もが指導を受けたいと思う指導者です。
なので、「中央大学もいいなぁ」と少し思っていた部分もあるんですが(笑)、「そこは(チャンスが)ないな」とも思っていたので(笑)。指導者をやるとしたら、実業団などでやらせて頂ける機会があればいいなと考えている中で「もう一回、箱根駅伝に!」と自分の中で考えていた部分もあったんですね。やっぱり、箱根駅伝が1番目立てるじゃないですか(笑)。
事業の細かい話も聞いて、ものすごいプレッシャーも感じましたし、期間も短いし(5年計画)、現実的にかなりの難題かなとも思いましたが、無理を可能にすることを自分の中で生きがいとしていた人間なので(笑)。
「自分がやったらどれくらいの期間で行けるんだろう」と、(採用の)答えをもらう前に勝手に考え始めましたね。目立ちながらも箱根駅伝を目指せる、話を頂いてからは、ワクワクする気持ちしかありませんでした。
ーー5年で箱根に連れていけと?
そうです。どこの大学も強化している中で、5年というのはすごく難しいことだとは思っています。
ですが、無理ではない。ちょうど「すごい」と思われる年数かな?とも思っているくらいですかね(笑)。私1人では成し遂げられませんが、大学もフルでサポートしてくれているし、それを選んで入ってきてくれた子たちと元々いた子たちが、今、全員協力をしてくれて。卒業生も、本当に全員が協力をしてくれて、今この状態があるんです。
これって、発足当時はまだ想像がつかなかった流れなんですよね。私自身、大学の時はおちゃらけていたので、どれだけそういうことが大切かということが分かりませんでした。ですが、指導者になって、いろんな方の協力があって今があるということをあらためて感じていますね。
3/5ヵ年を振り返る
ーー1年目、2年目、3年目と着々と力をつけてこられてたわけですね。
1年目は推薦で入ってきた子たちもいない中、今までいた子たちが一生懸命、必死に自分たちの力を少しでも上げようと努力をしています。
尚且つ、チーム内をしっかりとまとめてくれて。卒業生なんですけれど、「先に(これからに)繋がってくれる1年にしたい」と言ってくれた子がいて。
その子は、この1年だけでなく、自分たちが卒業する5年後を見据えてやっていきたいという意思を持って取り組んでくれました。そんな初代キャプテンの4年生から今、意思がこう繋がれてきて、私が入ってくる時に1年生だった学年が4年生になり…。「俺、やりたくないよ」という子もいたかもしれない中、みんな耐えて、ここまで来てくれたことによって今、力もついてきているんです。
何より、チーム内の意識がすごく上がってきていて「箱根駅伝見えてきたね」という話がでたり、「箱根駅伝に出て何区を走りたい」という話も本人たちの中で出てきていて、良い効果が出てきてるなと思いますね。
ーー今年の箱根駅伝予選会では途中、トップを走るようなシーンもありましたよね。
1番で通過したのは狙ってはいなかったんですが、「前半から積極的に行きなさい」という話はしました。風が後半強くなってくるし、風をよけたら上がれないんですよね。特にうちのチームは発展途上だから厳しくなる。ですから「前半から目立っていこうよ」という話をしました。
ーー前半から目立つ!まさに「上野スタイル」ですね!
選手たちも心配だったと思うんですよ。後半、体力が持つか分からないじゃないですか。不安にさせてしまった部分もあったかもしれないんですけど(16位(前年は28位)…。前半から積極的に行くことで来年に繋がったんじゃないかと思います。
「来年に繋げていく」というところをメイン走っていて、それが10数km(全長21.0975km)までは叶っていたということに意味があったように感じます。やはり後半はかなり落ちましたけれど(笑)。「先が見えた」そんな今年の予選会でした。
あと2年で”箱根駅伝”
ーー(立教箱根駅伝2024まで)あと2年とちょっとになります。この2年間でチームを作り上げていかなくてはならない。もちろん今いる選手もですが、高校生や全国各地を今、見ているところなんでしょうか?
今、いい選手がたくさん全国にいます。強豪校(大学)に進学したい、箱根駅伝に出たい、そして全日本駅伝に出たい、個人でもっと活躍をしたい…そういう思いを持った多くの選手たちが上位校にかたまっていく流れがある中で、毎年うちにきてくれる子たちに関しては、すごく嬉しいなと思いますね。そういう子たちを失望させないような指導をしていかないといけないなと肝に銘じながら、全国を回っています。
学連選抜”主将”は立教大生
ーーまずは年明け、箱根駅伝。学連選抜のキャプテンを立教の選手が務められました。このことに関してはいかがですか?
本人、斎藤俊輔も4年生になって自覚がすごく芽生えてきて。「立教大チームを僕が引っ張るんだ」という強い気持ちのもと、チームを引っ張ってくれました。
普段は口にしないけれど、「俺が今年は箱根に絶対に行く」というのをずっと言っていて。「学連に入ったらキャプテンがいなかったら僕がやります」ということも、有言実行して。
あとは、箱根駅伝のスタートラインに無事に立たせてあげて、彼が満足する4年間の集大成になるようにしてあげられたら、それが立教大自体の大きなアピールの場にもなるんじゃないかなと思います。
彼は卒業後、陸上をやらずに就職するので、まさにこれが「集大成」。そういう中の1つの糧になって、尚且つチームの「斎藤さんがあそこまでやれるんだから、俺らも少し頑張ればあの舞台に近づけるんじゃないか」とチームを大きく動かしてくれる、そんな箱根駅伝になってほしいなと思います。
大先輩平塚氏から贈る言葉
ーー上野さんの背中を見て一緒に走った斎藤選手。そして、今度は後輩たちがその背中を見て、また来年へと繋げ、2024年の箱根駅伝を目指されるということで…。上野さんのエスビー時代の先輩にあたる、城西大学を初めて箱根路に連れて行った平塚潤さんからメツセージをお預かりしています。ご紹介してもよろしいでしょうか。
はい!ありがとうございます。
ーーちなみに平塚さんとはどんなご交友関係で?
治療院が一緒になったり、今でもランニングをする姿を見させて頂いています。
ーー現役で走り続けられるところも上野さんと共通している
いやぁ、あそこまでいくとストイックだなと思います(笑)。
ーー上野さんへのメッセージをお伝えさせて頂きます。【現役時代の上野選手には、「スピードを武器にした天才ランナー」というイメージを持っていました。駅伝、トラック全てにおいて勝負強い選手でしたね。箱根駅伝監督経験者からのアドバイスとしては、冬場の基礎固めを埼玉県の森林公園などで、焦らずじっくり、スタミナ作りをしていけば箱根駅伝予選会は突破出来ます。】とのことです。
夏合宿と冬季は短期で強化する大事な時期です。そこは共通認識かなと思います。私たちも実業団の時、森林公園を使っていました。すごく良い場所なので、今後参考にしながら、色々と検討してやっていきたいなと思います。
ーーそして、【監督の言葉は選手にとってすごく影響します。「これを言ったらこの選手はどう変わるか」など、選手の気持ちがどう変わっていくのかを常に気にかけて発言すると良いと思います。チームマネジメントが成功する一例としては、私はトップ選手も大切にしますが、学生スポーツでは、力のないレギュラー以外の選手をいかに大切にするかということがチーム力が上がることに繋がっていくと思います】とのお言葉も頂きました。
ごもっともだと思います。全員が全員パーフェクトな人間ではないですよね。「もっとやらなきゃ」「強くならなきゃ」と思って取り組んでいるような、これから力をつけていく子のほうが一生懸命やっている傾向もあります。
上野監督だから出来ること
監督として就任した時から17~18分(5000m)の選手のメニューを個人的に立てたりもしています。そういうところを私も大切にしているので、本当に平塚さんがおっしゃる通りだと思います。速いから良い風に見るとか、遅いから見ないと言うことは絶対にしてはいけない。
それぞれどんな力であっても、平等だと思っています。「絶対、格差を生んではいけない」というのは、指導者になった時からの自分の中での「決め事」というか…。平塚さんみたいに重みのある言葉を学生たちにはまだ吐けません。私はまだ3年目なので。その代わり、近くでたくさん喋ってあげるということが、今、僕にできる最善のコミュニケーションだと思っています。
食事中、入浴中や廊下ですれ違った時、夜寝る前のストレッチの時間とか、とにかくコミュニケーションをとる時間を増やして、色々話してあげることが1番大切なことなんじゃないかなと思っています。
そういいう思いで、ずっとこの3年間やっているつもりなんですが、学生たちがどう受け取っているかが1番大事だと思っています。
城西大学を箱根駅伝に導いた、本当にすごくしっかりされている平塚さんの言葉は私にとってもすごくありがたい言葉ですし、偉大なエスビーの大先輩ですので…。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。
ーー駿河大学の徳本監督とのライバル関係もありますし、古巣・中央大学との関係も…いろんな図式のようなものがワクワクするように思い描けますね。
上野裕一郎の大切な言葉
人との繋がりの中で「感謝」という気持ちを、両角先生、田幸さん、瀬古さんにも教えて頂きました。そういった背景も踏まえて、やはり感謝の気持ちを忘れてはいけないと思っています。
「人との繋がりを大切にする」ということと、「感謝」の気持ち。特に、感謝の気持ちだけは常々忘れないようにしていきたいです。
やはり、人間っていろんな方に支えられて生きていますので。立教大学を「感謝の気持ち」で箱根駅伝に連れていければと思っています。これからも応援よろしくお願いします。
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※この内容は、「一般社団法人陸上競技物語」の協力のもと、YouTubeで公開された動画を記事にしました。
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