陸上物語14人目のゲストは七種競技のアテネオリンピック日本代表の中田有紀選手です。日本選手権9連覇、そして日本人で初めてこの競技でオリンピック選手になった中田選手。陸上を始めたのは中学1年生の時。きっかけはお母さんの「陸上をやってみたら?」の一言でした。今は選手として活動を続けながら、陸上教室と陸上クラブを作り、夢に向かってチャレンジする子どもたちのために「陸上競技の種を蒔こう」と活動されています。日々努力を重ねる中田選手からは、昨日の自分より今日の自分の成長を楽しまれている姿が伝わってきます。中田選手の陸上物語です。
目次
ーーお生まれは?
出生は滋賀県なんですが、地元は京都府です。大学進学で、愛知県のほうに。
ーー京都府の?
長岡京市です。
ーー長岡京市の思い出ってありますか?
中学校で陸上を始めたんですが、(長岡京市は)本当に〝故郷〟というか。自然豊かで良いところだなと思います。
走り高跳びの先輩に憧れて
ーー中学に入るまでは何か他のスポーツをされていたんでですか?
いえ、全くやっていなかったです。普通に外でたくさん遊ぶ、それだけでしたね。
ーー中学校で部活を選ぶ中、どうして陸上部に入部しようと思ったんですか?
最初は体操部に入りたいと思っていたんですね。くるくる回転しているのがすごく綺麗で。1週間ほどの体験入部期間、毎日、体操部を見学させてもらっていました。ですが、最終日に、陸上部と体操部の両方を見学させてもらって、最後に(陸上部を)見た時に、走り高跳びを跳んでいる先輩がいらっしゃって、『あ!これ、やってみたい!』と思ったんです。最後まで悩みましたが、母親が『かけっことか走るのが得意だから、陸上をやってみたら?』というアドバイスをもらって、陸上をやってみようかなと思ったのがきっかけです。
ーー振り返ると、小学生時代も足は速かった?
かけっこは得意でしたね。運動会でリレーの選手になることが自分のノルマでした(笑)。運動会なんかも楽しみにしていましたね。
ーー中学校1年生の春、陸上部に入部して、どんな練習をされたんですか?
走高跳をやりたくて入ったんですが、あらかじめ大会に出られる人数枠が学校で3人ぐらいと決まっていて。そこはもう、上級生の先輩方の中から3人出られる方が決まっていたんです。ですが、走高跳に含まれている三種競技Aという混成競技(出場枠を)を先生が薦めて下さって。今の混成競技につながるようなスタートがありました。
ーー早くもその段階で〝混成〟の世界に飛び込んでいった。
はい。走高跳、100m、そして砲丸投げの3つの種目をやる混成競技を勧めてもらったのが、(競技人生の)スタートでしたね。
混成と出会った中学校時代
ーー先程、走高跳を見て、『カッコいい!やりたい!』と思ったとおっしゃいましたが、実際に挑戦してみると、どんな種目でしたか?
やはり、見ているよりやるほうが難しくて。最初は初心者なので走高跳の硬いバーが怖くなったりして。助走はするけれど、跳べないというような時期もありました。でも、だんだん教えてもらうにつれ、上手に跳べるようになってきて。同じ地域の長岡中学校に、私よりもっと高さのあるバーを跳べる同級生の選手もいました。
ーー1番最初に跳んだバーの高さって覚えていますか?
もう、全然覚えていないですね。1mとか1m05cmとか…本当に低い高さだったと思います。
ーーその時の身長は?
私、身長がすごく小さくて。最初は150cmもなく、148cmぐらいで中学校に入学したんです。最初の頃は本当に高いものを跳ぶこと(自体)がやっとだったんですが、色々と教えてもらって、跳べるようになっていくのが面白くて、のめり込んでいきました。
ーー中学校での走り高跳びの記録はどれくらいだったんでしょうか?
中学生の時の走高跳の自己ベストは1m52cmです。三種競技Aで、京都の大会でも優勝できるようになってきて、少し力をつけていけるような時期がありました。
ーー小柄だということもあったと思いますが、1mを跳べなかった生徒が、1m52cmも跳べるようになったという。そういったご自身の経験を振り返ると、どういうところが成長されたんだと思いますか。
一緒に取り組んでくれる友達がいたり、ライバルの友達がいたりというのは大きかったと思います。あと、負けず嫌いな面が元々あるので。そういう性格で取り組めたというのが良かったのかなとも思います。
ーー前回、男子の十種競技の片山和也選手にもお伺いしたんですが、そんな1m50cmも身長のないような子が(砲丸投げを)…。ところで、砲丸投げの球って何キロくらいあるんでしたっけ?
中学校の砲丸は2.7キロですね。
ーー2リットルと500ミリリットルのペットボトルより重いものを、片手で持って投げるわけですよね。最初、砲丸を持った時の感触って覚えていますか?
初めは、上手に球に力を伝えるのも難しくて。砲丸投げを専門にしている同級生の友達から、持ち方や投げ方を教えてもらいながらやっていましたが、なかなか上手に砲丸を投げられなくて、苦労しましたね。
ーーそれこそ最初、どれくらい(の距離を)とばしていたとかって覚えています?
(中学校時代のベスト記録は)多分7mとか8m台ですね。
(本当に)飛んでいたのかなっていうぐらいの感じでしたね(笑)。
ーー今の私がやっても絶対そんなに飛ばないです!月並みな言葉ですが〝投げるコツ〟ってあるんですか?
砲丸投げってすごく技術種目なんです。なので、コツはたくさんありますね。
ーー100mはどれくらいで走られてたんですか?
中学校を卒業する頃は、13秒1とか2だったと思います。
ーー三種競技のペース配分とかって考えられていたんですか?
中学校の時なんかは三種目全部、全力で(取り組んでいました)。七種競技もペース配分はほとんどなくて。(常に)1種目ずつ集中して取り組んでいたので、ペース配分とかを考えたことがなかったですね。〝ペース配分〟というワードが、頭の中になかったです(笑)。
全国に挑んだ洛北高校時代
ーー洛北高校に進学するというのは、どういう巡り合わせだったんでしょうか?
洛北高校からはもともと、推薦のお話もいただいていて。一度、見学に伺わせてもらった時に、選手の方が自主的に自分達で測定をしたり、タイムを測る順番をうまく運営していたり…良い雰囲気で練習をされていたのを拝見して、『ここでやってみたいな』という気持ちが芽生えました。見た瞬間、ピタっときまして。その後、(洛北高校に進学する)お話を進めてもらえたので、入学が決まりました。
――高校時代を振り返って、1番に記憶に残っているシーンは?
高校3年生の時には、最終学年として『インターハイで結果を出したい』と思って、3年間、取り組んでいたんですね。高校時代、〝自分の専門種目は走高跳、サブ種目は混成競技〟というイメージで、競技に取り組んでいたんですが、1番熱心に力を入れていた走高跳でインターハイに行けなかった。ですが、サブ種目のサブ種目(という感覚)でやっていた走幅跳でインターハイに出場できることになったんです。
ーーすごい!
でも、当時はあまり気持ちが(走幅跳でも)フィットしなくて。思ったような記録が本番のインターハイで表現できなかったんです。『じゃあ、最後は混成競技で全国大会で優勝したい!』という気持ちが強くなっていったんですが、それも空回りしてしまって。その全国大会では、同じ京都(代表)の選手が優勝して、私が負けてしまったんです。そういった経験の後に、愛知県で〝日本ジュニア〟という大会が初めて開催されるということで、そちらに参加して、やっと優勝できた。その時、3年間一緒に取り組んできた同級生が朝、抱きついて『おめでとう!』って言ってくれて。それが1番、思い出としては残っていますね。〝友達がすごく喜んでくれた〟というのが、自分としてもすごく嬉しくて。『ああ、また頑張ろう』と、あらためて力が湧いてきた出来事でした。
混成に絞り込んだ中京大学
ーーそこから中京大学に進学されるわけですが、愛知での〝日本ジュニア〟とは関係なく?
日本ジュニアの成績が武器になって、進学先に中京大学を選ぶことができました。
ーー(中京大学の)練習環境はどんなものでしたか?
大学に入ってからは、混成競技をメインにしても良いし、走幅跳や走高跳など、『自分がやってみたい種目をメインで取り組んでもらって良いよ』と言ってもらっていました。なので、『自分の専門を何にしたら1番良いかな?』というのを考えたい時期でもあったので、中京大学にはそういう選択肢もあるということもあり、(自分がメインで取り組みたい種目を)選ぶことができました。
ーー中京大学に入ってしばらくしてから『よし、私は混成の道で邁進しよう』と?
実は、本当に気持ちがピタッとおさまったのは、大学4年生ぐらいの時期で。それまでは(混成競技と)三段跳びもやってみたいなと思って、3〜4年間取り組んでいたんですけれど。
ーー私の勉強不足で大変恐縮なんですが…混成競技に従事している選手って単体の種目をやっていくなかで、混成に辿り着くものですか?それとも、混成をずっとやっていくものなんでしょうか?
両方(のパターンが)あると思います。単発の種目で取り組んでいて、『いろんな種目ができるから』と混成に進む選手。そして、私みたいに最初から混成競技に触れることができる方は、そのまま混成競技で力を発揮していく選手と。両方あると思いますね。ヨーロッパでは(競技選択の)最初の入口が混成競技なんですよね。その中から、自分が得意なものをチョイスして、走幅跳とか走高跳とか、投てき種目とかに分かれていくんです。そのスタイルがとても良いなと思っていて。自分が知らなかった才能を発見できるかもしれませんよね。いろんな種目をやって、単発(種目)を選ぶというふうになればいいなと思っています。
コーチと約束した三ヵ年計画
ーー振り返ると、体操選手に憧れ、走り高跳びに魅力を感じ、三種競技をやったところから始まって、高校でも混成をやっていく中、走高跳より走幅跳のほうで先に結果が出て。大学進学後も、いろんなものを見ていく中、『ようやく混成だ!』となったのが大学4年生。このように振り返ると、単発種目を一生懸命やってきたことの積み重ねが、いい方向に向かっていった?
そうですね。あと、コーチとの出会いもありました。混成競技を専門に指導していらっしゃるコーチの方が海外から戻ってこられて。そのコーチとの出会いと、『記録を伸ばす競技力を高めたい』という自分の気持ちが、タイミング良く合いまして。今まで自分が取り組んできたものを1回ゼロにして、(タッグを組んで)1年目は、そのコーチが出すメニューを文句1つ言わず、やりました(笑)。
ーー今まで自分が積み重ねてきたものを一旦捨てることって怖くなかったですか?
いや…でも、捨てなければ、(コーチから)新しく教えてもらったことで自分がどれくらい伸びるのかが分からないと思って。最初の1年はやったことのないメニューでしたし、自分が取り組みたい内容と違ったとしても『すごく面白いな』というのもあって…『全部吸収しよう』と思って取り組んでいました。
――コーチとの出会いが1999年。そして、その3年後の2002年からは日本選手権を連覇していくわけですよね。
『3年で結果が出なければ解消しよう』と言われましたんですよ、最初に(笑)。
――3ヵ年計画!
(3年で結果が出ないということは)合っていない、ということなので。
1年目は全部受け入れてやってみて、実際、それに伴って力もついてきました。なので、2年目は自分の感覚についても少しお話をさせてもらって。3年目になって、2人でやりとりを増やしながら関係を構築していった感じでしたね。
ーーそもそも七種競技、種目の順番から教えていただけますか?
2日間に分けて4種目(1日目)、3種目(2日目)で割り振られているんですが、1日目が①100mハードル②走高跳③砲丸投げ④200m。そして、2日目が⑤走幅跳⑥やり投げ⑦800mです。
ーー1番最後に800mがあるんですね。というと、ペース配分なんて考えるもんじゃない?
考えるもんじゃないですね(笑)。
ーーどの辺で『あ、キツいな』と感じますか?
そもそも、2日目に筋肉痛が全くないということは一度も経験をしたことがないので…必ず疲労は残ってしまうんですね。(疲労は)残るんですが、試合後のクールダウンを工夫したり、出来るだけ新鮮な状態で翌日(の種目)に臨むようにしています。
ーーとなると、体力は必要ですよね?
体力は絶対に必要です。
認知度向上の意識が芽生えた世界陸上
ーー高校から七種競技になる(中学校では3種、4種)わけですが、大変失礼なことをお聞きしていることは承知の上なのですが…七種競技は〝クイーンオブアスリート〟、十種競技は〝キングオブアスリート〟と言われる割に、そこまで認知度が高くないという印象があります。
私が20代中盤から後半くらいだった時、世界大会に出場するきっかけを頂いたことで『混成競技を知ってもらいたい』という気持ちが芽生え始めたんですね。その頃は、(混成競技を)トライアスロンと間違えられたりもしました。『水泳があるよね?』と言われて『いや、陸上です』という話をしたり(笑)。そういうレベルだったんですけれど、今、大学で非常勤講師を勤めながら教員免許取得を目指す学生さんたちに陸上の指導をさせてもらうなか、『混成競技を知っているか?』ということを1番初めに伺うんですね。すると、今はほとんどの学生が知っているという状況なんです。10〜15年ぐらいで認知度はかなり変わってきたなと感じています。
ーー『私が変えていかなきゃ』という責任感はありましたか?
2007年に大阪開催の世界陸上への出場が決まって。その時、このチャンスを逃さずに『陸上ファンを増やしたい』という気持ちを持った選手が非常に多かったんです。みんな、(陸上ファンを増やすために)それぞれに活動を始めていた。私も同じく、混成競技をたくさんの人に知ってもらって、魅力を感じてもらいたいと思いながらプレーをしていました。そのあたりから『混成競技を知ってもらうきっかけを作っていきたい』と思い始めましたね。
ーーまさに、今回の東京オリンピックをチャンスに捉えたアスリートたちがいたように、『2007年大阪での世界陸上、これでモノにしよう』と?
陸上競技のファンが増えてくれるよう、頑張りたいと思いました。
〝日本選手権9連覇〟の秘訣
ーーその後、2002年から2010年まで日本選手権、9連覇。
まずは、自分の中に『この記録を超えたい』というものがあるんですが、その目標に毎回、チャレンジをしていくことが大切だと思っています。あとは、混成競技って7つも種目があるので、〝持ち味の種目とそうではない種目〟が出てくるわけです。なので、この〝差〟というものをどんどん(どちらの記録も)上げながら、埋めていかないといけない。上を目指せば目指すほど、それがすごく大事になってきます。〝単発の7種目の内、3種目とか4種目ほどは、日本選手権に出られるぐらいの力を〟ということを目標にやっていましたね。あとは、怪我にも気をつけながら取り組んできた結果が、(日本選手権9連覇に)繋がったんだと思います。
ーー中田さんの場合、持ち味はなんだったんですか?
私はやっぱり、持ち味の〝跳躍〟を伸ばしたいと思っていました。特に、七種競技の場合、走高跳がキーになるので。世界大会の場合、走り高跳びと砲丸投げの2種目において、(自分の記録と)世界との差があるなと感じたので、これらを伸ばさなければとも思っていましたね。走高跳と砲丸投げって相反する体型を要するものなんですが(笑)。
ーー振り返ると、中学の時に混成を始められた時、走り高跳びと砲丸投げが…。
ありましたね(笑)。
ーースタートされていたんですもんね。
七種競技日本人初のオリンピック選手
ーー日本選手権9連覇の間、アテネオリンピックが開催されました。日本人として初めて、七種競技でオリンピックに出場されました。当時を振り返って、いかがですか?
アジア圏の大会は経験を積ませてもらっていましたが、初めて世界大会に出場できたのがアテネオリンピックだったんです。海外の選手の迫力や、集中力の高さ、ここぞ!という時に必ず、〝跳んでくる、投げてくる、走ってくる〟。そういう〝勝負強さ〟みたいなものと、1点や2点に懸けてくる〝執着心〟。(海外の選手は)そういったものが非常に高くて、すごく勉強になりました。
ーー世界の空気を感じた?
そうですね。
ーー 一方で、〝日の丸を背負う〟というオリンピック独特の概念があると思います。まして、日本人で初めてこの種目に出場するということで…。
注目度に関しては、〝オリンピック〟というのは他(の大会)とは違うと思いますし、『それを逆に力にして出場したい』と思って現地には行ったんですけれど。オリンピックの舞台で、自分のパフォーマンスを出し切れるところまでは持っていけなかったのかなというのは、やはり(オリンピックが)終わってみたら、あったんですよね。
出来るだけ長く、〝生涯現役〟
今も〝出来るだけ長く現役を続けたい〟と思っていて。20代、30代、40代と競技を続けていくモチベーションみたいのものは少しずつ変わってきています。自分の体がもし動かなくなってしまったらプレーができなくなってしまいますから、そこが(選手生命の)区切りのタイミングになるのかなとも思いますが。でも、出来るだけ工夫をして良いトレーニングや良い動きといったものを追求しながら、出来るだけ長く現役をやり続けたいと思っています。生涯現役で頑張りたいです。
ーー〝プレイヤー〟としての喫緊の目標は?
本当に…出来るだけ長く、長く。出来るだけ長く現役を続けて、1試合でも多く試合に出場したいです。
ーー…楽しいんですか?!
楽しいですよ(笑)!大変なことは増えていきますし、工夫しなくちゃいけないことも勿論たくさんあります。でも、それが〝やり甲斐〟と〝次の新しいチャレンジ〟を生みだしてくれるので。色々ありますけれど、やはり楽しいですよね。
次世代へのバトンタッチ
ーー〝次世代への継承〟という部分ですが、今はどういった取り組みをされているんですか?
今は主に2本立てでやっています。小学生、中学生、高校生の若い世代の選手たちと一緒に陸上に取り組む〝陸上クラブ〟と〝陸上教室を〟を立ち上げて、毎週一緒に練習をしています。
ーーそれがこのユニフォームの?
私も、この愛知つばさTCA所属の選手なので。(子供達と)同じユニフォームを着て、試合に出場をしています。
ーーというと、小学生と同じ〝選手同士〟?
そうですね。
ーー〝陸上教室〟と〝クラブ〟の違いは?
〝クラブ〟は試合にも出られる仕組みになっていて。〝教室〟はかけっことか、投げ方とかを教える教室を毎週、開催しています。どちらも、元気いっぱいに子供たちが集まってきてくれるので、毎回楽しみなんですよ。
ーーそこって〝混成〟をやられていたからこその指導の幅の広さってありますよね?
実際に、今も(現役選手として)追求をしていることなので。また、〝子どものうちにこれができるようになっていたら、将来絶対役立つだろうな〟っていうことも、自分の経験上、あるんです。そういったことを出来るだけ、子どもたちが面白く感じてくれて、〝だんだん上手になる教え方〟で伝えていけたらなと。それもまた、自分にとって勉強になることなので面白いです。
ーー子どもたちからも〝現役続行へのパワー〟をもらっている?
もらっていると思いますね。
ーー子どもたちにとっても、オリンピック選手から教えてもらえる環境があるというのは恵まれたことだと思いますし、将来、そこの中から(オリンピック選手が)出てきてくれたら嬉しいですよね。
そうですね。〝ちょっとでも上を目指す〟ということを陸上を通して学んでほしいなと思います。陸上が得意な子はそれを伸ばしていったら良いし、陸上以外の分野に対しても、陸上で学んだことや身につけたことを活かしてもらえたら嬉しいなと思っています。
17年ぶりに破られた日本記録
ーー2002年から2010年までの〝日本選手権9連覇〟というのは、もしかしたら孤独な戦いだったのかなと捉えられる方もいるかもしれません。そして、ずっと更新されてこなかった日本記録がこの度、17年ぶりに更新されました。正直な心境、いかがですか?
現役の選手としては『やられたな』という気持ちはもちろんあるけれど、これまでの17年間でいろんな技術が改良されたり、シューズとか用具なんかもすごく良くなってきて。本当はもっと早く更新されるべきものだったなと思うんですけれど、やっと次の目標がまた高くなったので、これから混成のレベルが1つ1つ上がって、5000点じゃなくて6000点、6000点じゃなくて6300点とか6400点。そういう流れに繋がっていってくれれば良いなという気持ちがすごくあります。
ーー正直なところ、〝悔しい〟気持ちってありますか?
〝悔しい〟とはちょっと違うんですけれど…ステップアップしたなというのは、(混成種目にとっては)すごく良かったんじゃないかなと思いますね。
『夢に向かってチャレンジ!!』
もう一つ、先程お話したクラブや教室とは別に、混成競技を誰でも経験してもらえるようなフェスティバルを年に1度、開催しています。開催のきっかけは『陸上の大会ってどこで出たらいいの?』って聞かれたことだったんですが…公式戦って登録しないと出られないじゃないですか。誰でも出られる陸上の大会って、あまりないんですよね。混成競技を一度体験してもらって、陸上をやりたい小学生を増やそうという目的をもって、〝陸上競技の種を蒔こう〟と、2008年からフェスティバルを開催しています。〝夢〟を持ってみんながチャレンジできるよう、陸上を広めていきたいと考えています。いろんなことに、私もこれから挑戦していきたいと思います。
陸上物語の情報はこちら!
七種競技で唯一、五輪を知る女【中田有紀】【前編】
日本記録を破られたアスリートの本音【中田有紀】
一般社団法人 陸上競技物語 公式サイト
https://www.athleticsstories.or.jp
陸上物語 YouTubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UCzNOexjBhTrFs99yuzuTBaw?
Instagram
https://www.instagram.com/athleticsstories/
Twitter
https://mobile.twitter.com/athleticsstory
——–
※この内容は、「一般社団法人陸上競技物語」の協力のもと、YouTubeで公開された動画を記事にしました。
関連記事
RELATED ARTICLE
最新のコンテンツ
NEW CONTENTS
-
「私たちのことをもっと知ってもらいたい」 大学ラクロスを全国へ、そしてより身近に 大阪公立大学女子ラクロス部
女子ラクロス 大学スポーツ ラクロス
2024.07.28
特集
-
【アスリートのセカンドキャリア】「サッカー界とも新たな形で、プラスの風を」現役中に出会った〝好き〟がセカンドキャリアのカギになる 元サッカー選手・坂井達弥
社会貢献 元アスリート 次世代 サッカー 日本代表 地域密着 セカンドキャリア
2024.05.29
特集
-
【アスリートのセカンドキャリア】「競技生活は人生すべての糧になる」 現役時代をやりきることが新たな扉をひらく 元プロテニスプレイヤー・吉田友佳
テニス 女性とキャリア 元アスリート 次世代 教育 セカンドキャリア
2024.03.29
特集
-
【アスリートのセカンドキャリア】「キャリアチェンジは〝逃げ〟じゃない」〝競技生活=人生〟からアップデートしていくために<後編>
デュアルキャリア 野球 元アスリート キャリアチェンジ セカンドキャリア
2023.10.11
特集