特集2022.11.28

陸上物語File27 箱根駅伝の名物監督・大八木監督から教わった“運と縁と恩”で芸歴10年! M高史

アスリートの生き様を尋ねて全国を回る「陸上物語」。27人目のゲストは、ものまねアスリート芸人のM高史(えむ・たかし)さんです。陸上ファンなら誰しもがご存じ、Mさんの知られざる駒澤大学陸上部主務時代、芸人を目指すきっかけともなった福祉施設での心温まるエピソード。そして、“運と縁と恩”を大切に芸歴10年を築きあげた、Mさんの熱き陸上物語に迫ります。

〝川内優輝選手そっくり芸人〟の陸上物語

――Mさんといえば、川内優輝さんですよね!

そうですね。おかげさまで、自分がやってきた陸上競技の経験に加えて、芸人として川内選手のモノマネもさせていただいて本当に「運が良い人生だなぁ!」と思っています。この運の良さを、ちゃんと恩返しできるように頑張っていきたいと思っています。

――Mさんは、洛南高校の奥村隆太郎監督と同級生であり、川内優輝選手とも同年代でいらっしゃいますよね。

そうなんですよ。実は、川内優輝選手の出身校(春日部東高校)の先輩が、僕の駒澤大学時代の同級生で…。(川内選手にとって私は)高校の先輩の同級生ということで、ちょっとだけ気を遣っていただいて(笑)。本当に、心からありがたく思っています。

――Mさんが、陸上競技を始められたのはいつですか?

中学校1年生の時ですね。

――それは、どういうきっかけで?

小学校時代には野球をしていたのですが、「野球の才能があまりないな」というのは感じていて。ちょうどその時、テレビで箱根駅伝を家族で見ている時に、渡辺康幸さんやステファン・マヤカさんが、バチバチに走られているのを見て。当時から長距離は得意だったので、「陸上で箱根を目指したいな」と思ったのが、競技を始めたきっかけでした。

――この番組に出てくださった竹澤健介さんも、お兄さんと「テレビで山梨学院VS早稲田を見て夢中になった」とおっしゃっていました。まさに、その世代ですよね。

そうですね!それが、僕が小学校の時でした。

〝駒大・大八木×藤田〟の師弟関係に憧れて

僕は、世田谷学園という中高一貫の学校に通ってたんですけど、ちょうど僕が中学生の時、当時の監督である駒澤大学の大八木監督と現ヘッドコーチの藤田敦史さんが大学生だったんですよね。当時、その(大八木監督と藤田さんの)師弟関係にすごく憧れまして…。当時は、今と比べて、まだネットの普及が進んでいなかったので、毎月、陸上雑誌を楽しみに、二人の関係性を拝見していました。

――陸マガ(陸上マガジン)とか?

陸マガ・月陸(月間陸上)を楽しみにしていましたね。

――そういった師弟関係に憧れて、その大学に行きたいっていう方も珍しいですよね。

そうかもしれないですね。当時、藤田敦史さんが陸上雑誌の特集のプロフィールに、〝好きなアーティスト:B’z〟って書いてあったんですよ。そこで、「あ!B’zを聴けば、足が速くなるんだ!」と思ったんです、中学生だった僕は(笑)。

――すみません、Mさんって結構単純ですか!?(笑)。

シンプルに、そう思ったんですよ!(笑)。それで、だんだん聴いているうちに(B‘zを)歌うようになり、モノマネもするようになり…っていうのが、モノマネ芸人としての入り口です。

大八木監督激怒!〝カラオケでワシャー!〟

――モノマネを始めたのは、そんなに早い時期からだったんですか?

(モノマネを始めたのは)大学生になってからですね。監督の厳しいご指導があった大学のマネージャー時代ですね。

――その監督とは…大八木監督?!

大八木監督ですね!15分~30分でも少し時間があったら、昼休みに学校の側のカラオケに行ってワシャーっと歌って帰る、みたいなことをやっていましたね。

――その時は、絶対いえないことですよね(笑)。

でも、バレるんですよね(笑)。カラオケのうるさい感じで、すぐにバレちゃったんだと思います(笑)。

――バレたら、どんな感じでご指導を?(笑)。

携帯に、ものすごい剣幕で「三上!!(M高史さん本名)」と電話が掛かってきて、すぐ寮に戻って…みたいな感じでした(笑)。監督にそういったご指導をいただいたからこそ、今のモノマネ芸人というキャリアがありますので、大八木監督には心から感謝していますし、監督も、結構その時の話で、イジってくださったりしていますね(笑)。卒業して何年経っても、私にとっては恩師ですし、そういった師弟関係ってすごく大切だなと感じています。

憧れの駒大陸上部に入部、主務への転向

――そんな大八木監督と当時の藤田選手の師弟関係に憧れて、駒澤大学に陸上部員として入学されたんですか?

中学・高校も陸上部員として頑張っていたんですが、ぜんぜん実績が無くて。ただ、やっぱり憧れが強かったので、駒澤大学を一般入試で受験し、晴れて合格をいただきました。でも、最初の3ヶ月ほどは陸上部に入れてもらえなくて…。その間、同好会に所属させてもらって、後に選手として入部させていただきました。

――選手として入部させていただいた?

そうですね!最初は、選手としてやらせていただいていたんですけど、一度も駒澤のユニフォームを着ることなく、9ヶ月でマネージャーに転向しました。

――その時のタイムはどれくらいだったんですか?

当時、大学に入学してからは記録会にも出られていなかったんですが、おそらく5000mで15分台ほどだったと思います。13分台や14分前半の記録をもつ先輩方とは、本当に比べものになりませんでした。5000mを走っても、(先輩たちと)1周以上差がついていたので、朝練習と基本的な練習だけで目一杯な感じでしたね。

――普通だったら、そこで退部を選ばれる方が多いんじゃないかと思うのですが、快くマネージャーを引き受けられた?

いや、そんなに快くではなかったのですが…ただ、せっかく憧れの駒澤大学陸上部に入れさせていただいたからには、マネージャーとしてサポート役に徹するというのも、全然ありかな、と思っていました。ただ、当時の大八木監督や先輩の主務の方の日頃のお姿を拝見していたので、「とてもじゃないけど、自分に務まるかな?」っていう心配はありました。そういった覚悟については、たくさん自問自答を重ねましたが、最終的には「やらせていただきます!」とお返事をさせていただきました。それが、大学1年生の箱根終わりの2月ぐらいでしたね。大学3年生から4年生の間、主務をさせていただきました。

あれもこれも!?知られざる主務のお仕事

――主務の方ってどんなことをされているんですか?

チーム運営のすべてに携わります。タイムを測ったり、給水したりといった練習のサポートや試合の付き添いに加えて、試合のエントリーや、メディアさんの取材対応のスケジュールを調整したり、アンケートのお返事をしたり…。あとは、学校側にそういった資料を提出したり、合宿の手配なども担当します。宿泊人数や新幹線や飛行機の予約など、イメージとしては、芸能マネージャーに近いかもしれません。あとは、大八木監督の娘さんが当時小学生だったので、お嬢さんの宿題をみたり…。監督もお忙しい方だったので、土日とかは不在になることも多かったので、監督の代わりに、お嬢さんの運動会のビデオ撮影兼タイムも図る、みたいなこともやっていました(笑)。

――そういうの、よく聞きます!大八木監督もそうだったんですね!

そうですね!なので、監督の奥様が「頑張れ!」とお嬢さんを応援しているところ、駒澤大学のジャージを着た学生がビデオを持ちながらタイムを測っている、みたいなことをさせていただきました(笑)。

――企業の社長秘書さんのようですね。大八木さんのお嬢さんって、今おいくつくらいに?

もう社会人になられている頃だと思います。お嬢さんは当時小学生で、僕が主務をしていたのが16、7年前になりますので…。本当に早いですよね。

――でも、きっと今でもお兄さん的な感覚ですよね。

いまだに“三上兄ちゃん”と呼ばれます(笑)。

――素敵ですね!

厳しさの中に“愛”あり!大八木監督の魅力

――大八木監督の厳しさについてのお話もありましたが、それでも、選手たちがついてくるような大八木監督には、どんな魅力があるのでしょうか?

やっぱり、〝愛〟があるからじゃないですかね。思ったことをストレートにおっしゃる方でもありますが、その中でも、緻密に「この選手にはこういう感じで」、「この子にはこういう感じで」と、しっかり分けて考えていらっしゃって、すごく部員のことを細かく、丁寧に見ていらっしゃいます。

洛南高校OB、駒大に入学した佐藤圭汰選手について

――そんな大八木監督をよく知るMさんに、ぜひお聞きしておきたいのが、我らが洛南高校を卒業された佐藤圭汰選手が、御母校に入学されたことなのですが…!

いや…もう、本当に!OBとして楽しみでしょうがないですね!

――一方で、大八木さんと佐藤選手のコンビって、Mさんはどう感じられますか?

もう、どうなっちゃうんですかね!?(笑)。大八木監督は常々、世界で戦うことを視野に入れていらっしゃって。それこそ、藤田敦史さんが学生の時から「世界で戦う!」とおっしゃっていたので、監督ご自身にとっても、(佐藤選手を育てていくことは)楽しみでしょうがないんじゃないですかね。高校記録保持者が入部するということで、「大切に育てなきゃいけない」というプレッシャーも感じていらっしゃるとは思いますが、OBとしては、すごく楽しみです。

箱根駅伝、大八木監督がMに渡した最後のマイク

――主務として、一番印象に残っていることはありますか?

やっぱり、箱根駅伝ですかね。三大駅伝すべて対応させていただいて、4年生の時には優勝も経験させていただきました。その中でも、特に箱根駅伝は、運営管理者として監督が乗っている車に同乗させていただけて…。自分は選手として走れませんでしたが、車で全区間、一緒に走らせていただきました。

――すごく贅沢なことですよね。

そうですね。6区の途中は走れないんですが、約200㎞ぐらいは車で通らせていただきました。4年生の時は、車の車種的に運転手、助手席、補助席の3人掛けだったんです。監督とものすごく距離が近いんですよ!3年生の時は違う車だったので、僕は後ろにいたんですが。

――後日、監督のアナウンスだけ特集されるくらい名物と化してますが、あれを隣で、しかも地声で!

監督が決められたポイントで選手に声をかけるんですが、その〝材料〟がやはりポイントなんですよね。例えば、「どこの大学と何秒差で、今区間何位で来ている」というのも、今はLINEとかでわりとすぐに情報入りますが、当時は沿道に部員がいて、給水地点のタイム差を測って、その情報を集めてから書き記した上で、監督にお見せしていました。それを、次の声掛けポイントまでに準備しておくことと、ラップも測りつつ、過去の先輩方や区間記録保持者の通過タイムの差も参考にしなければならないというところで、結構、頭をつかう作業でした。

――情報処理能力が問われますね。その仕事ができたら、大概の会社さんは受かりそうですよね!

はじめて車に乗った時は、本当に「現代の大名行列だ!」思いました(笑)。車道は通行止めなんで、選手しかいないんですよ。そんな中、運営管理車がビシッと並んで、沿道ではお客さんがひしめき合っているじゃないですか。「大名行列って、きっとこんな感じだったんだろうな」と思いました。

――主務として大変なこともあった中、こういった他の方が見られない景色も見られたという…。

そうですね。大八木監督には、100のうち99くらいは叱っていただいていましたが(笑)。その〝飴と鞭のバランス〟というか…そういった優しさから、僕にもいろいろと声をかけてくださりました。4年生の時の箱根駅伝の最後のアンカーが、僕の同級生である治郎丸健一という選手で。彼にとっても最初で最後の箱根駅伝だったので、僕も車の中でバンバン叩いて、応援してたんですよね。すると、監督が最後のマイクを渡してくださって「お前が言っていいぞ!」と言ってくださって。それで、もう必死に叫んでいましたが、マイクを渡されたら、必死で「治郎丸いけー!」とかしか言えなくて(笑)。「監督って、やっぱりすごいな」と思いました。終わってから、同級生の治郎丸に「声聞こえた?」って聞くと、「いや、全然聞こえなかったよ」って(笑)。それくらい、アンカーは大歓声を浴びますし、最後の最後まで競り合って、それどころじゃなかったと思います(笑)。それからというもの、駒澤大学の10区の伝統じゃないですけれど、今も最後に主務にマイクを託してくださっているみたいです。

大学卒業後、福祉施設で生活支援員に

――ご自身が表に出るタレント業もそうですけど、かがやく方たちを引き立てる側での取材者やライターとしてもご活躍されてる背景には、そういったマネージャー時代に培われたものが大きいのでしょうか?

やはり、支える方がいてこそ選手が輝く、というのはあると思います。また、大学卒業後に5年ほど、知的障がい者の方が利用される福祉施設で生活支援員として働いていたことも大きいと思います。

――その選択はどういった思いで?

私の大学の専攻が、社会福祉学で、教員免許も持っていたので、いろいろと考えたのですが、就職活動をする時間もなかったので…。僕、就活したの、1日だけだったんです。やはり、「強度が高い練習の日は、やはりマネージャーがいないとな」とも思っていたので、そうじゃないジョグの日に就活をしようと思っていた矢先、そういったメニューの日と、前職の福祉施設の面接日が重なったんです。「ここだ!」と思い、一発で決めました。そして、そこの施設に行ったのもまた運命で…。

――施設ではどんな仕事をされていたんですか?

食事や排せつなど、重度の障がい者の方の日常生活の支援を担当していました。そこで、障がい者スポーツ指導員の資格を取ったり、利用者さんとバンドを組んだりもしました。

施設でものまね!私が芸人になった理由

――バンド!?

施設利用者の方で、ピアノが上手な自閉症の方がいらっしゃって。しかも、楽譜を読まずとも(音源を)聴くだけで、全部弾けちゃう方だったんです。

――天才だ!

びっくりしましたね!「なんだこの人は!?」と。同時に、「(施設の)お部屋でこんな才能を埋もれさせていてはもったいない!」とも思い、音楽好きな利用者さんとバンドを組むことにしました。最初は施設のお祭りで披露していたんですけど、「これは外で披露したほうが良いな」と思って、各施設に営業をしました。そうすると、行く先々で「ぜひ、うちにも来てください!」、「来年も来てください!」と、たくさんのオファーをいただいて。最初は、自分の生活支援の仕事のプラスαの感覚でやっていたのが、当然、音楽活動も、私にとって大切な生きがいになり、「片手間ではなく本気でやりたい!」と思い始めた時期でもありました。

――なるほど。心境の変化があったんですね。

そんな時、ちょうど担当している利用者さんがご病気になってしまって…。それまでゲラゲラ笑っていた方が脳出血をおこしてしまって、表情がまったく無くなってしまったんです。ですが、ある日、その方に私がモノマネを披露すると、すごく喜んで笑ってくださったんです。そこで、「本気でモノマネをやりたい!」と覚悟を決め、オーディションを受けました。

――オーディションを受けた?

そうですね。新宿にある〝そっくり館キサラ〟というところのオーディションを受け、3回目で合格しました。そこで、福祉の仕事を退職させていただき、ステージに立たせていただくようになった、というのがきっかけです。

――すごく勇気が必要な決断ですよね。そして、その決断の根底には利用者の方の笑顔があったんですね。

そうですね。大八木監督にも、もちろんすぐに報告をさせていただいたのですが、いつもより一、二段ぐらい甲高くなった声で「何―!?」と、ビックリされました(笑)。でも、「やるからには1番を目指せ!」と言っていただいて、今に至ります。

大八木イズム!“運と縁と恩”で芸歴10年!

2011年の12月が初ステージで、ちょうど去年(2021年)で、芸歴10年を迎えました。

――おめでとうございます!

ありがとうございます!本当に〝運と縁と恩〟のおかげですね。〝ご縁を大事にして、お世話になった方に恩返しをする〟ということを大切にすると、またラッキーなことが起きるんです。〝決しておごらず、誠実に!〟というベースの考え方があるのも、学生時代に大八木監督に教えていただいたおかげでもあると思っています。

本人黙認!?川内優輝選手のものまね芸人

――ここからどういった活躍を見せていかれたいですか?

活躍というのもあれですけど…2012年~13年頃というと、僕のモノマネのルーツである川内優輝選手が、ちょうど公務員ランナーとして脚光を浴びられて、世界陸上の代表になり、話題になったような時期だったんですよね。

――そうですよね。それから程なくして、Mさんのことを私(庄野アナウンサー)も存じ上げるようになりました。ちなみに、Mさんは川内さんのことを、もともと知っていらっしゃったんですか?

もちろん!学生時代から、「学習院大学におもしろい選手がいるな」と思っていました。まわりの他大学のマネージャーからは、「学生時代から似てましたよ」とよく言われるんですけれど、当時は、まさか川内さんのモノマネをさせていただくことになるとは思っていませんでした。芸人としてデビュー後、「1年くらいは歌マネで勝負したいな」と思っていたんですけど、結局、〝陸上も歌マネも、上には上がいる〟ということを、とにかく痛感しました。しかも歌マネの先輩方って、陸上と違って引退されないんですよね(笑)。芸事は特に年を重ねて、どんどん上手くなっていく分野でもあります。そこで、ふと「川内優輝さんのモノマネをしている人は、世界で僕しかいないんじゃないか?」という考えに至ったんです。自分自身も陸上をやっていたので走れますし、似てると言われることもあるし…ということで、モノマネをさせていただくようになりました。

――どのタイミングで、川内さんご本人にご挨拶されたんですか?

ご挨拶は芸歴1ヶ月の頃でしたね。当時、谷川真理さんがいらっしゃったスポーツ塾でバイトをしながら、芸人を始めたのですが、そこの主催大会で川内優輝さんにご挨拶させていただきました。

――当時、川内選手は何とおっしゃっていましたか?

僕、ちょっとずるいかもしれないんですけど…駒澤大学のOBであり、川内さんの先輩でもあった「森田圭祐くんが僕の同級生で…」と話したら、「あ、森田さんの!」みたいな感じになって(笑)。もちろん、「全力リスペクトでモノマネさせていただきます!」という旨もお伝えしたんですが、川口さんは公務員でいらっしゃるので、「ちょっと〝公認〟はできません」とおっしゃっていて。最近は〝黙認〟になってくださったみたいなんですが(笑)。

――モノマネ業界ではよくありますよね(笑)。非公認・黙認・公認と、ちょっとずつステップアップされていった?

そうみたいです!

M流で!運と縁に感謝をして恩返しを!

――川内選手も、日本に大きな影響を与えられましたよね。あれだけの数のマラソンを走る方もいらっしゃいませんでしたし、世界選手権も出ちゃうし…という中で、Mさんは陸上界、そしてこの日本に、どのような影響を与えていきたいと思われますか?

現在、ゲストランナーやMCとして、各所に呼んでいただいて…。先程も話させていただきましたが、おごらず、そして原点を忘れずに感謝の気持ちで務めさせていただくことをこれからも大切にしたいです。また、〝運と縁と恩〟でいう〝恩返し〟の部分を大切にしていきたいとも思っています。陸上界、福祉の業界で、たくさんの方に支えられて、応援していただいているので、やはり「お世話になっている業界を盛り上げたい」という気持ちがあります。今はコロナの影響で、なかなか福祉施設にはうかがえていないのですが、歌を一緒に歌ったり、体操をしたり…そういった取り組みができたらいいなと思っています。また、マラソン大会以外でも、学校訪問や部活訪問を通して、記事として陸上業界のことを発信させていただいたり、今もおこなっているラジオ配信を通じて、恩返しをつづけていきたいなと思っています。

1000日連続ラジオ!?Mが挑戦する理由

――陸上物語が始まって以来、さまざまなトップアスリートの方やオリンピアンの方とお話してきた中で、〝陸上選手本人たちが、「自分たちはこういうことをやっている」ということをPRしていく必要があるものの、実際はそういったPRが得意じゃない方もいらっしゃる〟という話を聞きました。今までだったら、「(選手の代わりとして)タレントに何ができるんだよ!」と言われてしまうこともあったかもしれないけれど、寧ろ、今はタレントさんたちのほうが、よっぽどお茶の間との距離が近かったりするんじゃないかと感じています。Mさんも、そういったことを感じるところはありますか?

そうですね。私自身において考えるならば、〝会いに行けるアイドル〟ならぬ〝会いに伺うアスリート芸人〟みたいな感じじゃないかなと思うんです。部活訪問に関しても、どんなに遠くてもスケジュールが合えば、私から伺うようにしています。活動を通じ、そういった〝距離感の近さ〟を、私自身もすごく感じています。

――Mさんのこれからの抱負を教えてください。

毎日配信しているラジオに関しては、今、3つの力を鍛えたいなと思っていて…。その1つが応援力、2つめが質問力、そして共感力です。お話いただく方の魅力が少しでも伝わるような質問をしたり、その人をあらためて全力で応援したいなと思ってもらえるような放送がしたいなと思っています。また、これもインタビューで出会った言葉なのですが、〝あたりまえにできることを、誰もできないぐらい続ける〟ということを、大切にしています。例えば、インタビュー自体は普通にできると思うんですけど、それを1000日連続でやろうと思うと、なかなか簡単ではないと思うんです。〝誰もがびっくりするぐらい、続けさせていただく〟ということを、これからも恩返しとして、続けていきたいなと思っています。

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※この内容は、「一般社団法人陸上競技物語」の協力のもと、YouTubeで公開された動画を記事にしました。