特集2022.04.15

【陸上物語FILE 7 福本幸】大怪我を乗り越えた先に、生涯現役を目指す元祖ママ競技者の生き様

アスリートの生き様を尋ねて全国を回る「陸上物語」。 
7人目のゲストは「走り高跳び」日本女子の第一人者で「ママさんアスリート」の先駆者、福本幸選手です。生涯現役ジャンパーの陸上物語。そこには競技への想いや愛情が詰まっていました。

偉大な先輩方

ーーなぜあんな高いところを跳べるんですか?
日本の女子の先輩方が何人も1m90cmを超えられていまして。その先輩方の背中を見て育ってきたところがあって、先人が跳ばれていることなので。それ(先輩方のジャンプ)を見せていただいて、『私も跳びたい』という一心でした。

小学生時代

ーー小学校の頃は何をされていましたか?
小学生の頃は、そんなに運動をバリバリするような小学生ではなくて、
週に1、2回スイミングスクールに行く程度で。
ただ、走るのはすごく好きだったので。小学校1年生ぐらいから負けず嫌いだったというのもあって、『学年の女子の中では1番になりたい』という気持ちはありました。競争をしたら、『他の子には勝ちたい』一心で走っていました。
近所の公園で、野球をやっているお兄ちゃんと競争をさせてもらったり…本当に走るというのが好きだったので、公園の遊具を使って『こういうことをしたら早くなるんじゃないか?』みたいな(トレーニングを考えて)…。

ーーん??どういうことですか?

例えば、タイヤとか公園にあるじゃないですか。

ーーよく見る、半分になっているようなタイヤ?

そうですね。あのタイヤから跳んで、降りて、跳んで、降りて…とか。本当に筋トレ的なこととかを。

ーーああー!スポ根アニメで見たような世界を!

そうですね(笑)。本当に(今)よく考えたら、人気(ひとけ)のない公園とかだったので、危ないんですけれど(笑)。

ーー小学生の時ですもんね。

そうですね。あんまり、そんなに本当に誰もいないところでこっそりやっていました。

ーー目の前にいる速い人に負けたくないぞ!と?

そうですね。『とにかく速く走りたい』という気持ちがあって。クラスで50m走を測る時も、『他の人は(タイムが)なんぼくらいやろ?』と気にしながら…。運動会で活躍できるように『速く走りたい』というのは、ずっと自分の中にあったので。そういうのもあって、中学校は〝陸上水泳部〟っていう部活を選びました。

陸上水泳部に入部した中学時代

ーー中学で〝陸上水泳部〟?両方をやる部?

顧問の先生が、元々、水泳を熱心にされていた方で。水泳部の部員が3人しかいなかったんですが、冬場になると部員は(トレーニングとして)結構走らされるという関係もあって。
陸上部という部活もあったんですけれど、私が入学する頃には、(陸上部は)廃部になるという方向性になっていて。それで、その水泳部の顧問の先生が〝陸上水泳部〟を立ち上げられました。(陸上水泳部の先生が)担任の先生でもあったという背景もあったんですが、陸上も水泳も好きだったので『両方できて、ちょうどいいわ』と思って。1年生の時は泳ぐ練習もあって、水泳の大会も出ていたんですけれど。2年生からは、スイミングスクールに行って、本格的に泳いでいる子しか大会に出なくなりました。

走り幅跳びを始める 

ーー「水泳はもうええ、陸上に専念せえ。」と。先生も切り替えがすごいですね!走り高跳びはどのあたりで始めたんですか?

入部してすぐです。記録会形式で、走り幅跳び、50m走、砲丸投げ、走り高跳びを全員でやらせてもらって、特性を見極めるような風潮があって。私はその時、はさみ跳びで1m29cmくらい跳んだんです。けれど、私が通っていた中学校は、結果が伴わないと、その種目が自分に合っているかどうかが分からないということで、種目を変えることを進められるという…。
中学生の時、私はすごくひどい貧血で、持久走が全然走れなかったんです。練習にもついていけなかった。みんなと一緒に練習が出来ないので『(自分は)すごく根性がない』と思っていました。また、短距離(種目)の練習というのはウォーミングアップでスタートダッシュをするんですけれど、50mをジョッグ繋ぎで40本とか走るんですね。そして、その後に種目別の練習。短距離(種目)を選ぶとさらに走るので『これはちょっと無理やわ…』と思いました。そうして始めた走り高跳び種目でも、結果が伴わないと変更も伴ってくる。そうなると、私はこの部活で生き延びるのは難しいと思って。走り高跳びでとにかく毎日1cmでも記録を伸ばしたいという気持ちで練習をしていました。本当に、〝必死で〟跳んでいました。

ーー『私には走り高跳びしかないんだ』と、ある意味(ご自身に)プレッシャーをかけて?

そうですね。他の種目は、体力的にもちょっと頑張れないと思って…。走り高跳びで、とにかくちょっとでも記録を伸ばして、先生に『違う種目でいこうか』と言われないように、しがみついていました。

夙川高校時代

ーーそして、中学3年生の時に全中で勝ちました(1m73cm)。その後、夙川高校を選んだのはどうしてだったんでしょうか?

(夙川高校の)顧問の先生が走り高跳びを専門にされているとお聞きして。近畿選手権に中学生の時に出場したんですが、その時に、夙川高校の方々に『うちの高校においでよ!』と、声をかけていただいて。(声をかけて下さった)その先輩が1m73cmぐらい跳ばれていて。しかも、すごく感じの良い先輩で、(入学を)考えてみようかなと。顧問の先生もお優しそうな方だったので、夙川高校を選びました。

ーーその環境は予想通り自分にマッチしましたか?

夙川学院って陸上競技部以外がすごく強くて。柔道部も世界ジュニアで優勝されていたりとか、ソフトボール部なんかだとインターハイで11連覇されていたりとか。
体育科に入ったら、5、6時間目は〝選考体育〟っていう科目として部活が週に何回かできる。その上、普通の生徒と一緒に早く帰られると聞いたので『あ!それはいい!』という、(今思えば)安易な理由で選んでしまって(笑)。
いわゆる〝体育会(系)〟という運動に熱心な人がクラスに何人もいるので、最初は、本当にその環境に慣れるのが大変で。上下関係もすごくきちんとしている学校だったので、『ちょっと選択を間違えてしまったかな…』って思ったんですけれど。中学校の先生が熱心にして下さったので、『中学校の部活動よりは頑張れそうだな』と思って、しがみついてやっていたと思います。

ーー競技の垣根を超えた切磋琢磨がそこにあって、高いモチベーションでできたのは良い環境だったんですかね。

そうですね。

ーー高校3年間で全国ランキング1位までいって。

はい。

ヘルニアに悩まされた甲南大学時代

ーーただ徐々にステップアップされて、記録も伸ばしていかれる中、学生時代に怪我をご経験されたとお聞きしました。

大学に入って、寝返りも打てなくなるようなヘルニアになってしまいまして。歩くのもすごく苦痛だったので、普通に大学に通うのもすごくしんどくて…。競技どころじゃなかったんで、『これで、もう一回跳べるのかな?』という不安がすごくありました。ただ、冬場(オフシーズン)の怪我だったので、リハビリをしながら『自分に今、出来ることをしよう』と思って。
練習はそんなに出来なかったんですけれど、それこそ自分自身の技術とか、コンディショニングとかを学ぶ機会をつくろうと…。『今は体が使えないから頭を使おう!』と思って、たくさんの本を読みました。図書館に入り浸って、競技の専門書など、いろいろな本を読んで。メンタル的なところも私はそんなに強くないと思っていたので、メンタルトレーニングの本も読み漁り、『とにかく、今できることをやろう』と。知識をつけるということを、その時は頑張っ

ーーまさに〝怪我の功名〟にしようと。ただ、寝返りもできない、いつ復帰できるかも分からないという不安というのは…。

痛すぎて、なんか本当に…復帰ができるという発想はなかったです。今だと、良い手術ができるとかもあると思うんですけれど、昔は体にメスを入れてしまうと『もう復帰するのは難しいんじゃないか?』と言われて。なので、鍼治療と東洋医学に頼って、自分自身が足りない筋力を補ったりとか。安静にしないといけなかったので、安静にしていながらウォーキングをして、本も読んでという日々を3ヶ月ぐらい過ごしていました。

–その期間というのは長かった…?

あんまり焦りはなかったんですけど…いつ治るか分からないんで、焦っても仕方がないなと。それこそ、競技に復帰できるか分からないけれど、自分が今できることをするしかないなという考えで過ごしていました。

ーーまさにこれをご覧になっているアスリートの方や陸上競技を頑張っている方の中でも先が見えなくなったりとか故障と隣り合わせだったりする方もいらっしゃるかもしれないですけど…。そうやって、気持ちを前向きに切り替えていくことができたのが、その後のステップアップに続いていったのかもしれないですね。

アテネオリンピック、 幻の標準記録突破も

ーー陸上競技において、目標にしていたのはやはり、オリンピック?

そうですね。オリンピックです。

ーー具体的に言うといつの?

2004年のアテネオリンピックが1番狙えた…というのも、前の年に1m90cmを跳べた年だったので、『あとちょっとだ!』っていうところで。
1m90cmを3回クリアしていたので、『絶対に行きたい!ここ(のタイミング)やろ!』って思っていたので、アテネ(オリンピックへの出場)は1番狙っていました。当時、標準記録の1m92cmは一応クリアできていたんですが、日本選手権で調整ミスしてしまって…。
普段は、仕事をしながら試合に出ていたというのもあって疲労が残った状態で試合に出ていたんですけど、ちょうど開催日から2日前ぐらいに(会場に)入らせていただいた時は、すごく疲労が抜けているように感じて。踏切の距離感が1.5mぐらい違うくらい、自分の体がすごく動いて。下げても下げても近いという状態になって、『こんなに体の調子が良いのに、なんでこんなに踏み切りにくいんや!』という感覚でした。その試合は1m80cmしか跳べなくて3位で終わってしまったんですけれど…。当時の会場は鳥取だったんですが、すごく良い風も吹いていて、トラックレースや幅跳びとかは『追い風参考記録ちゃうん?』と思うくらい〝公認〟でオリンピック標準記録をたくさんの選手が切ったんですが、どうしても人数枠があるので。今だと、世界の標準を切る人も少なくなっているので、本当にタイミング(次第)だなとは思うんですけれど。1週間後の大阪選手権では標準Bの1m92cmは跳んだんですが…。今だと、標準(記録)を跳んで、日本選手権3位以内だと(オリンピック日本代表が)決まってくるんですけれど、その時は人数枠の関係で、追加されるとしたら標準Aを跳ばないと難しいだろうと言われていて。そういった背景から、標準A(1m95cm)に上げたんですけれど、本当にポロッと(バーを)落としてしまって。でも、それは本当に自分の実力不足だったので、致し方ないなと思っています。

ママさんジャンパーの奇跡

ーー数々の功績を日本のジャンプ界に残されて、〝ママさんジャンパー〟としてもパイオニア的な存在でいらっしゃって。ご自身にとって、結婚であったりご出産であったり…。競技をしながら、そのあたりに対する思いはどうでしたか?

私がまだ25歳ぐらいの時は、30歳ぐらいで現役をやっている方がすごく少なくて。『女性は結婚をして、早く子どもを産んだら?』みたいなことを、平然と言う方がたくさんいる時代だったので…。女性が永続的に競技をやるということが、(当時25歳の)自分から見て、上の先輩方がちょっとやりづらそうだなと感じていたんですね。というのも、記録が下がってくる(時期に)年齢が上がってくる。年齢が上がってきたから、記録が下がる(というように思われる)。そうなって、〝じゃあもう(競技を)辞めたら?〟みたいな雰囲気が『これは良くないな』と思って。自分自身が30歳ぐらいの時まで現役を続けていた時に結果を出さないとそのあたりのイメージも払拭できないという思いもあったんです。自分自身が女性の競技者として若い子たちが自分が好きなように競技をできるような社会になったら良いなっていう思いもあります。私だけ(の力)ではできないと思うんですけれど、30歳になろうが、協議を続けている限りは世界で戦えるであろう水準は落とさないようにしないといけないという覚悟で競技をやっていました。子どもを産む、結婚をするっていうのも同じように、結婚をしたら競技を辞めようかなとも思っていたんですけど、主人が「別にやりたかったらいいんじゃない?」といってくれて。引退してから出産しようという発想だったんですけれど、でもなんか…『もうちょっとやりたいけれど、子どもも欲しい!』みたいな。

ーー陸上に限らず、あらゆる職種でそうだと思うんですよ、女性の皆さん。

当時、公立高校で働いていたんですが、その時の校長先生には『うちで競技をやっていても、公務優先だから、オリンピックに選ばれても試合には出してあげられないよ』と言われ、競技をやりたいけれど、あかんねやと。ちょっとその時に…引退も考えたんですけれど、(当時、思っていたことは)とりあえず、今、2つ欲しい…〝競技を続けること〟と〝子ども〟(の2つ)。できたら、『子どもを先に産もう』と決めて。子どもが無事に生まれてから、競技ができるならやりたいと思っていましたね。

ーー今は『子どもを産もう』と決めたことが本当に、最高の宝物を…。

もう…すごく子どもが好きだったので、『本当はもっとたくさん、子どもが欲しい』という気持ちはあったんですけども。〝競技をやりたい気持ち〟と、〝子どもがほしい〟と言う気持ち(の両立)が、すごく難しい状況で競技をやっていたので、子どもが無事に生まれてくれて…彼女は夜泣きもしなかったので、すごくありがたくて。生まれた子どもにも助けられていたんですけれど、出産前も自分でできるトレーニングは何かしらやっていて。6月が出産予定だったんですが、それまで9月の全日本実業団にずっと連続で出ていましたし、連覇もしていたので、『これを(出産後の)復帰戦にしたい!』と決めていまして。(子どもを)産んだことがないので、出産をしたらどうなるかが分からないじゃないですか(笑)。それなのに、『子どもが生まれたら自分は動けるし、子どもには生まれた後は迷惑をかけないから、多少無理をしてもいけるかな』っていう思いがあって(笑)。勝手に、『(子供を)産んで、すぐには跳ばれへんのかな?』とか、分からなさすぎて考えていたんですけれど(笑)。とにかく、9月の全日本実業団に出たいなっていう気持ちで、体重管理と出産に向けての取り組みもしていまして。生まれてすぐトレーニングも再開をして、出場をしたんですけれど、ちょっと無理はしたかなと思います。知識がなかったので。

ーー知識というか、経験したことがないことですものね。

生涯現役アスリートの目標


(色紙を指して)〝Do your best―最善を尽くす。〟
これから競技をするにしろ、子育てや指導をするにしろ、その状況で1番のベストを尽くして取り組みたい、という思いは変わらないです。

世界マスターズへの挑戦

ーーその一つが世界マスターですか?
世界マスターズはいろんな方が出られていて。それこそ、いわゆる走り高跳びの体型ではない方が高跳びをされていたりとか、ビール腹のおじさんが跳ばれていたりとか…(笑)。(高跳びは)健康のためにもですし、(出場者人生の)生きがいにもなっているような競技っていうものなので。私自身はその(現役時の)スタイルのまま競技を続けてきているんですけども、そういった世界の方々からの刺激もいただける。世界マスターズも優勝をさせていただいてますが、また開催される機会があれば、自分の力を発揮できる舞台ですのでしっかり活躍をしたいと思っています。

まだまだ終わらない挑戦

ーーずばり何歳まで跳び続けたいですか?

ちょっと怪我が今もあるんですけれど、今年この前の記録会に出させていただいた時には1m70cm跳べて。自分の身長が跳べるうちは、1m70cmぐらいは跳んでおきたいなっていう気持ちはあって。試合をやっていると欲が出てくるので。『もうちょっと跳べるかなあ』と思いながら、創意工夫しながら練習をしているんですが、本当に今は故障との戦いが大きくて。もう練習を〝存分に〟できる歳ではないので、自分の体と向き合いながら。若い大学生とか、羨ましいです!たくさん練習が積めるので…。

ーーそこを『羨ましい』と言えるのがすごいです!

いや!羨ましいですよ!

ーーまだ競い合っていますもんね?

えー、もう…(笑)(首を横に振る)

ーーそうじゃないと羨ましいって思わないですよ!

もう(練習が)積めないんで、(大学生との練習量の差を)詰めれないので(笑)。
『これ(この練習)をやったらもっと跳べるのにな』って思いながらも…。

ーーすごい。生涯現役だ。

はい。年を重ねてからは試合(本番)の中で、自分のやりたいことを表現しないと。練習では、もうできなくなってしまってるので。というのも、練習でやってしまうと怪我に繋がってしまったりして、大会に出られないことになるので。今はもう『試合でこういうことをしたら、この記録跳べるかな?』ということに挑戦をしています。

これは私の言葉ではありませんが、今日、この(取材)スタジオに陸上関係者の方も何人か来られてて。皆さん、口を揃えて『バケモンや…!』とおっしゃってるんですけが、そういったふうに言われることは、ご自身でどう思われますか?

バケモノかはちょっとわからないんですけど(笑)。でも、こんなに走り高跳びが好きな人は少ないかなと思います。

陸上物語の情報はこちら!

もう跳べないかも…大怪我の直後、取った行動とは【福本幸】【前編】

女は結婚・出産で引退?元祖ママ競技者の生き様【福本幸】【後編】

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※この内容は、「一般社団法人陸上競技物語」の協力のもと、YouTubeで公開された動画を記事にしました。