特集2021.12.20

柔道 中村美里さん(32)北京、ロンドン、リオと三度の五輪出場のアスリート人生、オリンピアンが考える”生涯柔道”とは?

世の中に多くの感動を与えた東京オリンピック。数々の競技で日本人選手の活躍が目立つ中、ニッポンのお家芸 柔道でも多くのメダリストが誕生しました。柔道競技においては、過去にも多くの記憶に残るメダリストが誕生していますが、その中のひとり、女子52kg級の中村美里さん。畳の上でのクールなたたずまいが印象的な柔道家です。

北京五輪、ロンドン五輪、リオ五輪と三大会連続で日本代表として出場するという偉業の裏側や、現在は所属チームのアドバイザーを務める中村さんの競技人生、柔道競技を取り巻く環境についてお話しを伺いました。

中村 美里(なかむら みさと) プロフィール 

1989年生まれ 東京都出身
三井住友海上女子柔道部 選手兼アドバイザー

【主な戦績】
2008年 北京オリンピック 52kg級 銅メダル
2015年 世界選手権大会(アスタナ)52kg級 優勝
2016年 リオデジャネイロオリンピック 52kg級 銅メダル

柔道との出会い きっかけはテレビで見た格闘技番組

柔道をはじめたきっかけは?

格闘技をはじめたいと思ったことが、柔道と出会うきっかけでした。小学生当時、テレビ番組で「K-1」や「PRIDE」が放映されていて、お父さんが総合格闘技が好きだったので一緒に観ていました。

小学校2年生の頃にいろいろ競技を見た中で、最初は極真空手に興味を持って「これがいい」って両親にも言ったんですけど、練習でサンドバックを殴ったり蹴る感じだったので、少し暴力的な感じに見えたのか、お母さんに反対されてしまって。(笑) 
そこで極真空手は諦めて、近くの警察署で柔道教室へ見学にいったときに、大きい人を小さい人が投げているのを見てカッコいいなと思い、柔道をはじめました。

本格的に柔道の世界に足を踏み入れていったのは、どのタイミングですか?

中学校からですね。それまでは多くても週に2~3回の練習で、それ以外の曜日はほかの習い事もしていました。野球とかソフトボールとか、すべての曜日が埋まるようなスケジュールでした。柔道一本ではなかったですね。

本当は、地元の中学校に通ってソフトボール部に入ろうと思っていたんですよね。(笑) でも、小学校4年生ぐらいから通っていた、神奈川県の町道場の先生に別の中学校を紹介していただいたんです。当時は、柔道で全然成績を出せていなかったので、「なんで自分のことを推してくれるんだろう?」って思っていたんですが、誘ってもいただいたのでその中学校に決めました。

実際にその先生は、当時の中村さんの何を評価して声をかけてくださったんでしょう?

それは未だにわからないんですが、負けず嫌いなところとか、いろいろ総合的に見てくださっていたのでしょうか。これまでもいろんな選手を見てきた道場の先生ではあったので。

なにかキラリと光るものを見つけて、本格的に柔道をやることを促されたんですね。

そうですね。なので、そのお声がけがなかったら、ソフトボール部にいましたね。(笑)

中村美里さんの中学生時代(中村さんご提供)

頭角を現した中学生時代 「あれ?」という感じで全国優勝

実力がついてきたと自覚したのは、いつからですか?

中学校2年生からですね。1年生の頃は県大会3位ぐらいのレベルで、全国大会にも出られませんでしたし、小学生相手に負けてしまうこともありました。

その状況でも、負けず嫌いな性格だったので、人よりは練習時間の多い環境に身を置くなど、とにかく自分より強い先輩たちに喰らいつくつもりで必死にやっていったら、中学校2年の時にいきなり(神奈川)県大会優勝をすることができて、その後の関東大会も全国大会も優勝して、急に成績が伸びていきました。

それはすごい!(笑) 振り返ってみて、何がきっかけや理由だと思います?

んー…?
中学校1年生で県大会3位という順位だったことが、とても悔しかったということは理由の一つですね。そこからとにかく一生懸命にやりました。あとは、増量に取り組んだことです。身体がとても軽かったので、中学校1年生で34kgぐらいしかありませんでした。中学校から大会で体重区分が分かれるのですが、最軽量級でも44kg以下なので、そこで戦うためにも10kg増やさないといけませんでした。

その状況で優勝し、いかがでしたか?周囲の反応はどうでした?

みんなよろこんでくれていました。ただ、失礼な話になってしまうかもしれませんが、個人的には「よっしゃ!」という感じではなく、「あれっ?」っていう感じで。いつの間に優勝したんだ? という感覚でした。強くなっている実感がなかったのかもしれないです、目の前の試合に全力で挑んでいたら、いつの間にかタイトルを獲得できていたような感覚ですね。

ただ、道場に帰ると自分より先輩たちは全員強かったので、全国優勝したら終わりだという感覚は全然なく、「まだまだだな」という感じでした。いま振り返ると、とても良い環境だったなと思います。

取材中の中村さん

世界へのステップ  “最大の敵” 勝手な思いこみを打ち破れ!

高校時代から、オリンピアンになることへの考えや目標はあったのですか?

中学生までは、どこか夢みたいな感じでもありましたが、高校1年生時に全日本選手権(2005年 講道館杯)で優勝し、その後の国際大会(2005年 福岡国際)で当時の世界チャンピオンのヤネト・ベルモイ選手(キューバ)に勝つことができました。結果的には、その国際大会で優勝することができたんですが、世界チャンピオンに勝ったことで「自分は世界で戦うレベルにいるんだ」ということを実感したんですよね。この国際大会レベルでオリンピックも戦うことになることをイメージした時に、夢ではなく現実的なものに自分のなかでもなっていきました。

すごいですね!強豪ばかりの状況のなか、尻込みしなかったですか?

周囲から大きな期待もされていなかったので、特にそういったことはなかったですね。優勝候補などと言われていたらまた違ったかもしれませんが、日本でも2~3番手みたいな感じだったので、それこそ楽しんでいました。

お話しを伺っていて、メンタル面が強いなと感じました。もともとメンタルは強かったのですか?

いえ! 中学生までは緊張してしまうタイプでした。
ある中学生の時の試合で、私が白帯で、相手は黒帯だったんですね。そのことに当時とてもビビっていたようで、無言でお父さんの隣に座っていたんです。(笑) 
その時にお父さんが私の緊張を察したようで、「相手が黒帯だからってビビらず、いつも通りやってこい!」と言ってくれて、試合に向かったんです。そしたら、ものの10秒ぐらいで勝って。(笑) 相手が黒帯だからと言って、自分で勝手に強いイメージを作り出していることに気が付いたんですよね。なんか自分、浅はかだったなって思いました。(笑) 

そこで、これまで自分がやってきたことを試合で発揮することが大切だということに気が付いて、以降は目の前の一戦と向き合っていればおのずと優勝できていたという感覚です。
優勝することが目的にはなっていなかったですね。

高校2年でぶつかった壁 階級を上げる決断

国際大会優勝後、自分で変えたことや変わったことはありましたか?

特に自分として変わったことはありませんでしたが、高校1年時に勝てていた試合に高校2年時は勝てなくなったんです。だいたい3位とか、優勝に届かないことが続いてスランプのような時期が続きました。階級変更の選択肢もありましたが、負けず嫌いなので、変えるなら負けた相手に勝ってからにしたいという思いもあって、なかなか踏み込めず。(笑) 
ただ、将来(6年後)のロンドン五輪を見据え、高校3年の時に48kg級から52kg級にひとつ階級を上げました。

階級を上げたことで、本来のご自身のパフォーマンスも取り戻せたという感じですか?

そうですね。階級を上げる前はきびしい減量とも戦っていたので、食事も満足に摂れず試合中はヘロヘロだったりしたんですけど、ひとつ階級を上げると4kgの差が生じるので、その4kgが私にとっては大きかったですね。食事制限も気にせず、階級を上げた後は試合も楽しかったです。
その後は国内の大会でもタイトルを獲得できたり、国際大会でも優勝を収めたりすることができ、52kg級でも日本代表争いに加われるようになりました。

北京、ロンドン、リオ 三度出場して感じた “五輪は特別”という思いとは?

実際に五輪代表になっていかがでしたか?

五輪だから特別なことっていうのは、特になかったですね。
取り組むことも、普段と一緒でした。あまり相手を研究することも得意ではないですし、先入観をあえて持たないようにするためにも、あえて念入りに情報収集するといったことはありませんでした。

初出場だった北京オリンピックは銅メダルでした…

準決勝で負けたときが特に悔しかったです。
相手が強くて全く通用しなくて、金メダルを目標にしていた自分が恥ずかしくも思えてしまったんですよね。でも、三位決定戦の前にコーチから「ちゃんとメダルを獲ってこい!」と言われ、勝ちたい気持ちを持っては臨みました。銅メダルを獲得しても正直あまり嬉しい気持ちにはなれませんでした。

ただ、その後に五輪でメダルを獲得することの大切さを改めて感じました。

その後、というのは、具体的にどんなタイミングですか?

ロンドン五輪とリオ五輪を経験した時です。
ロンドンでは初戦敗退だったので、北京五輪時と比較すると周囲の反応も違いますし、到着した空港の出口すらも違ったんですよね。メダルを獲った選手は正面ゲートから出てカメラや記者に囲まれますが、獲得できなかった選手はそっと他の出口を通ったり。
五輪はメダルを獲得することがすべてではないですが、この大会の特別感や、たくさんの人を喜ばせることに繋がることを知りました。
当時は、「金メダル以外は全部一緒です」という発言をしていましたが、そんなことはないですね。(笑)

メダルを獲れなかったロンドン五輪は何とも言えない感情でしたよね。

そうですね。ロンドン五輪は金メダル獲得だけを目指して、4年間取り組んできたので。
北京五輪後もすぐに切り替えて、練習を始め、どんな試合も五輪に向けた通過点だと思ってやっていました。
だからこそ、悔しさもなかったですね。
虚しいというか。自分にとっては厳しい時間を過ごした4年間だったので、ロンドン五輪後に引退しようと思っていました。

でも引退せず、リオ五輪を目指しましたね

膝を負傷して、長期間リハビリをしていた期間が自分にとって大きかったです。人生で初めて柔道から長期間離れた期間でしたが、その期間で柔道というスポーツが、日本ではいかに恵まれた環境で競技ができるスポーツなのかを知ることができました。

自分と同じような怪我でリハビリをしている他競技の選手と交流する機会などもあったのですが、日本代表でも遠征費や活動費を自己負担せざるを得ない競技もあるのを知りました。
柔道の日本代表は自己負担もないですし、いままで知らなかったことを知って、もっと自分も頑張らないとな、と思いました。

また、復帰していく他競技の選手の復帰戦もお互いに見に行ったりしたのですが、その際に怪我から復帰した仲間の姿がとてもカッコよく見えたんですよね。そういったきっかけがあり、競技復帰することも試合に出場することも決めました。

リオ五輪はどんな気持ちで臨んだんですか?

体力的にも精神的にも一番安定していて、これまでで一番強い自分で五輪に臨めたと思いますね。北京は勢いだけで進み、ロンドンは心と身体のバランスが整っていなかった状態でしたが、それらを乗り越えられた先のコンディションで挑めたと思います。

選手キャリアの先にあるもの 大学院進学、そして「生涯柔道」

その後の2016年に無期限の休養を発表されました。それから現在に至るまでのことを教えていただけますか?

柔道以外のことに挑戦する選択肢も考えたのですが、結局 柔道しかないと思ったんです。
ただ、柔道を教えるとしても、これまでの自分の経験や、やってきたことだけでは限界が来ると思い、勉強する機会を持たないといけないと思っていました。そんなタイミングで、筑波大学の大学院進学の提案がありました。以前からご提案はいただいていたのですが、なかなか自分で決めきれず、このタイミングで進学することを決断しました。

現在、所属チームでは選手兼アドバイザーという立場ですが、どちらかというと教える機会が多いです。柔道教室やオリンピック教育といった取り組みに参加したり、講演に行ったりもしています。オリンピアンでもある自分の言ったことに影響力があることを自覚し、しっかりと私の経験を伝えていかなければいけない立場にいることに気が付くことも出来ました。
これまでは話すのも人前に立つことも苦手でしたが、自ら資料を作成するなどし、ちゃんと取り組むようになりました。

柔道人口も減少傾向にあったり、柔道という競技のイメージ向上が大きな課題となっている状況でもあります。普及活動には力を入れたいですね。将来的には、自分の道場を持つことが夢です。

私たちは勝つための競技としての柔道をやってきましたが、そういった側面以外にもたくさんの魅力が柔道にはあると思っているので、「生涯スポーツ」のような「生涯柔道」として親しまれるものにしたいですね。

中村さんの、柔道競技に対する思いが伝わってきました。
 最後に、現役アスリートのみなさまへメッセージをお願いします。

私自身は後悔しているわけではありませんが、もっといろいろ考えておけばよかったと思うことがあります。選手時代、五輪の金メダル獲得を目指していた頃は、それ以外のことは考えられていなかったんですよね。いまだからこそ振り返って思うことは、五輪が人生の最後ではなく、その後のことを考えられるようにしておくべきだったかなと思います。自身の経験を糧にして、その先に何を目指すのかを、いまのアスリートのみなさんには自分が現役のころから考えていただきたいですね。

取材後記

輝かしい偉業を収められてきた中村さんの柔道人生にも、紆余曲折があったことを知ることができました。また、三度のオリンピックを経験したからこそ、競技人生で成績を残すことだけが重要なのではなく、リタイア後のことまで見据えて目の前のことに取り組むことの重要性を語る中村さんの言葉には、とても力強さを感じました。