特集2022.01.22

スポーツ×地域 元Jリーガーがサッカーで町おこしをするプロに転身! スクールを経営する元ガンバ大阪 小川直毅さん(26)

ガンバ大阪で3年間Jリーガーとして活躍し、世代別の日本代表にも選出された経歴を持つ小川直毅(おがわ・なおき)さん。Jリーガー引退後に選んだ道は「サッカーを通じて地域を活気づける起業家になること」でした。今は子どもたちにサッカーを教えるスクールを3校経営。
また、兵庫県北摂トップリーグに所属するサッカークラブ「FC SONHO川西」のオーナー兼選手として活躍中です。
プロフェッショナルになるためには、「何か1つでも誰にも負けない・譲れない〝自信を持つこと〟」だと話す小川さん。努力を積み重ねて掴み取ったJリーガーになるまでの道のり。そして、起業家になった今に至るまで。たっぷりとお話を伺ってきました!

小川直毅(おがわなおき)プロフィール

■出身地 兵庫県 川西市
■生年月日 1995.7.3(26歳)
■ポジション MF
■身長/体重 168cm/62kg
■サッカー経歴
2002~2007 日生中央サッカークラブ
2008~2010 ガンバ大阪ジュニアユース
2011~2013 ガンバ大阪ユース (追手門学院高校3 年)
2014〜2016ガンバ大阪、※15年度は藤枝MYFCに期間限定で移籍
2017〜2018 FC TIAMO枚方
2018〜2019 オーストラリアのサッカークラブ
      Wollongong United FC(Premier League)
■代表歴
U-19日本代表
U-18日本代表

憧れのガンバ大阪の選手になるまで

サッカーを始めたきっかけを教えてください!

(小川さんご提供)

小学校の1年生の夏、きっかけは祖父が日本代表のユニフォームを買ってくれて、「かっこいい!」と憧れを持ったことが始まりでした。初めは地元のサッカークラブ、日生中央サッカークラブに入ったんですが、周りの子の方が上手かったんので、一生懸命練習をして自分も上手くなりました。小学5年生の時、都道府県別の地域のセレクションに落ちたことをきっかけに、人生で一番練習をしたのを覚えています。それもあってか、小学6年生の時には、ガンバ大阪、ヴィッセル神戸、セレッソ大阪のジュニアユースからオファーを頂き、ガンバ大阪を選びました。

ジュニアユースにはどうやって入るんですか?


▲ガンバジュニアユース時代 中学時代の全国大会(ナイキプレミアカップ)で優勝した時の写真(小川さんご提供)

一般的にはセレクションという1次試験から3次試験までのテストがあり、3次まで受かった人が合格。ジュニアユースに入ることができます。毎年全国で20人ほどの子がジュニアユースに選ばれます。また、セレクションの前に、練習参加というものがあって、ジュニアユースの中学1年生の子たちに混じって練習をして、スカウトの人から「君は3次試験から来て下さい」や、「君は2次試験から来てね」と言われることもあるんです。そして、年間数人だけがセレクション、1次試験から3次試験を飛ばして合格という人もいます。そのうちの1人が僕でした。僕はとにかく足が速かったんです。技術的には大阪の子の方が圧倒的に上手かったんですが、身体能力を認められました。

ガンバ大阪にこだわった理由はありますか?

理由が2つあって、日生中央サッカークラブの憧れの先輩がガンバのジュニアユースに入って、その人を追いかけたいと思っていたのが一つ。もう1つが兵庫県選抜で一緒にやっていたメンバーがみんなヴィッセル神戸かセレッソ大阪を選んだので、顔見知りの中でサッカーを練習しても上手くならないんじゃないかなというのが理由です。当時は兵庫県選抜と大阪選抜が試合をしたら、必ずといっていいほど大阪の選抜チームが勝っていたんです。レベルが高く、知らない環境に飛び込んで自身を高めたいと考えました。

内田裕斗選手も同期でしたよね?

そうですね、彼は才能もあって努力家で、負けず嫌いで。プロになるために必要な要素を持っていたなと感じています。対戦相手になったらとても敵わないので、チームメイトで良かったなと思えるような心強い存在でした。

小川選手が考える『プロになるために必要な要素』とはなんですか?

絶対的な『自信』です。ここだけは誰にも負けないという譲れない部分を持つ必要があります。自信をキープするためには、努力を積み上げ続けるしかありません。
他の選手より、1回でも多く、1秒でも長く、そんな努力を続けることが『プロ』になるためには必要だと思います。

ジュニアユース(中学時代)、ユース時代(高校時代)と、どんな思いでサッカーと向き合っていましたか?

僕は技術より身体能力だけでジュニアユースに入った人間だったので、最初は技術のある子たちに揉まれて、置いて行かれた感があったんです。コーチなどからは「足が速いだけなら陸上をやれ!」と言われていました。周りのレベルが高いガンバ大阪のアカデミーの中で目立つために、どうすれば自分の足の速さを活かせるのか?と、練習時には頭を使うようになったんです。そうすると、徐々にですが、自分でもいける!戦えるぞ!と思えてきました。
でも、中学2年生、3年生の時には「僕はサッカーが出来る」と、正直調子に乗っていた時期があったんです。心の底ではサッカーが好きなんですけれど、反抗期もあり、親とも衝突して、サッカーに対する熱量が下がっていました。今思えば、本当に生意気でした。高校のユースに上がる時にユース入りは断ろうと思ってました。今まで積み重ねてきたことを全部を踏みにじりそうになったんです。でも、親が軌道修正をしてくれました。両親は中学生の時は川西市から大阪まで片道1時間半かけて送り迎えをしてくれたり、週末の貴重な休みを僕の試合のために遠いところ試合見に来てくれたり、僕のサッカーを支えてくれてました。

ユース、高校生になってから、環境はまた変わりましたか?


▲高校卒業式にてユースのメンバーと(小川さんご提供)

そうですね、ガンバは僕がユースに上がった頃から、みんな大阪の茨木市の寮生活になりました。かつ、学校も追手門学院高等学校と提携して、高校に通い、練習に行き、寮に帰る。というセットになったんです。高校から家を離れて、洗濯、部屋の掃除が自分の当たり前に身についたんで、自立ができたのは大きかったです。

ユース時代からプロになるまでの過程は?

   
プロになる選手は高校1年生の頃から試合に出て活躍!というイメージがあるかもしれませんが、僕は高校1年生の時はスタメンでは出られなかったんです。でも、偶然、ジュニアユース時代の監督とユースに上がった時の監督が同じ梅津博徳さんだったんです。僕にサッカーの全てを教えてくれた恩師で、ずっと信じて使い続けてもらえたおかげで、高校3年生の時にはU-18日本代表になれました。日本代表歴がついたことで、プロになれる確率が上がり、トップチームの練習にも呼んでもらう機会が増え、そこで偶然にも良いプレーが出来て…。そんな幸運の連続で、高校3年生の夏に「プロ内定」と言われて、夢が叶いました。ユースからの同期では、内田裕斗選手と一緒にプロになることができました。


▲U-19日本代表時前列左から2番目(16番)(小川さんご提供)

Jリーガーになってからは苦難の連続

プロになってからは?

プロになってから良い思い出の方が正直少ないです。僕がプロになった年にガンバはJ2からJ1に昇格して、3冠を決めました(Jリーグカップ、J 1制覇、天皇杯)。日本代表クラスとポジション争いをしないといけなくなり、一流選手と僕との実力差に衝撃を受けたんです。プレーの1つ1つのクオリティやフィジカルもそう。唯一、スピードの面では通用したんですけれど、それも対応されてしまいました。1年目は練習試合やプレシーズンで点をそれなりに決めていたんですけれど、でも試合に使ってもらえるかと思ったら使ってもらえない。3年間ガンバにいましたけれど、人生で1番悩んで、サッカーが楽しくなくて、辛かったです。


▲2014年 ガンバ大阪ナビスコカップ優勝時(小川さんご提供)

コーチや身近な先輩から声かけはありましたか?

もちろん色々声をかけてもらいました。でも、僕は運と足が速いという才能だけでプロになったので、練習と言う努力を充分にしてこなせてなかったんです。プロになってから努力の仕方が分からなくなっていました。当たり前のようにみんな筋力トレーニングをしたり、プラスアルファで練習したりしているけれど、そんなの恥ずかしいと思っていた人間でした。がむしゃらさに欠けていて。やっていたのは表向きの努力だけでした。

1年目が終わった頃、藤枝MYFCに期限付きでレンタル移籍になったんですよね?


▲藤枝MYFC移籍時(小川さんご提供)

そうですね。何で俺はJ1なのに行かないといけないの?と思っていたんですが「このまま2年目残っていても、ガンバで出られる試合一回もありませんよ」と言われて。このままだと自分はダメだと。変わりたいなと思って藤枝へ行きました。

環境の違いなどありましたか?

全然違いました。天然芝が人工芝に変わり、クラブハウスも小さいプレハブ。練習が終わったら他のチームメイトは当たり前のように仕事に行き、僕だけは練習が終わったらそれで終わり。J1とJ3でこんなに違うのかと衝撃を受けました。自分がどれだけ恵まれた環境にいたのかと気づき、改心しました。

ガンバに戻ってからは?

ガンバに戻って契約最後の年は2軍からのスタート。開幕戦は試合に出たんですけれど、怪我明けだったのもあり、実戦感覚をすっかり忘れてしまってたんです。来シーズンの契約の話が秋にあったんですけれど「契約しません」と言われてしまいました。人生どん底でした。

残りの試合は?

他のクラブチームに見てもらう就活です。ガンバにいたし、どこでも移籍先はあると思っていたんですが、現実は甘くはありませんでした。最後は自分1人で色々な人のツテを使って横浜FCやFC琉球、長野パルセイロのキャンプなどに行きました。でも結局全部断られました。東南アジアから話もあったんですが、海外に行くことは想定していなかったので断りました。サッカー選手じゃ無くなるのか…と悩んでいたら、当時 地域リーグの FC TIAMO(ティアモ)枚方のオーナーが電話をくれたんです。経緯を説明したら、親身になってくれました。「うちのクラブで半年居て、また夏にJリーガーにチャレンジしたらいいやん」と言うてくれたんです。

当時はどんな心境でしたか?


▲FC TIAMO枚方時代(小川さんご提供)

Jリーガーじゃ無くなることがショックでした。今まで親や周りの人が導いてここまで連れてきてくれたのに、1つも恩返しが出来ないまま終わってしまった。でも、枚方が良いきっかけになりました。町クラブは持ちグラウンドも無いのが当たり前。フットサルコートで練習して、土日は試合をして、みんな当たり前に仕事に行く。サッカーの給料もほぼないけれど、みんなの必死さに感化されて「ここでやる意味もあるな」「面白いな」と、思えるようになったんです。町クラブを応援してくれているスポンサーやサポーターの方の温かさも、身近に感じる事が出来ました。

J1のガンバとはお給料は違いましたよね?

正直、何十倍と違いました。枚方だけでは食べていけないので、当時、知り合いがサッカースクールをしていて、コーチを始めました。僕は子供の頃はやれと言われたことを見て出来た人間なんですけれど、出来ない子に指導するのが難しかった。でも、それが面白くなってきたんです。スクールの仕組みにとても興味が沸き、これは自分で運営出来るぞ!と思い始めたんです。サッカースクールを自分で立ち上げようと思いました。

元Jリーガーがサッカースクールの経営者になる

(小川さんご提供)

スクールの立ち上げから聞かせて下さい

(小川さんご提供)

まずは協力してくれる友人と経営を始めました。チラシを作って、ガンバ時代からやっていたSNSを通じて「サッカースクールを始めます!ホームタウンの高槻で!」と、発信しました。去年まで僕はガンバにいたし、どれだけ人が集まるか楽しみ!と期待していて、いざ無料体験会を開いたら、たったの6人しか集まらなかったんです。それで結局入会したのが3人、1人月謝が6000円。友人と2人で割って、交通費を引いたら利益が無くて。経営はこんなにも難しいのかと壁にぶち当たりました。

どうやって 3校を経営するまでになったのですか?

まずは10人集めようと、何回も自転車に乗って町中チラシを配りました。なんとか10人集まったら、そこからは口コミで広まりました。次は豊中市、その次は地元に貢献したいなと思って川西市で開きました。今では100人ほどの生徒さんがいます。

100人!すごいですね。

まず、僕らの子どもの頃はどこの公園も空き地もサッカーや野球するのが当たり前で、ボール1個持ってみんなでサッカーするのが当たり前でしたよね? でも今は公園もボール禁止の場所が多いんです。近所の人に怒られることもありますし。空き地も怪我をしたら困るからと、市が管理して施錠していて、大人がお金を払ってグラウンドを開けないといけない世の中に変わりました。自由にスポーツが出来ないのが可哀想。大人は「今の子どもたちは体力が落ちている」とか、「家でゲームするな、スポーツしろ」って言う人がいる。それは無理じゃないか? と思ったんです。テニスでもバスケでも何でもよかったんですけれど僕がサッカー選手だったからサッカースクールを作った。生活がかかっていたからお金をいただいていましたが、将来的に僕が事業で成功したら、サッカースクールを全部フリーでやりたいんですよ。グラウンドの門だけ開けておくから、子どもたちに自由にサッカーをやってほしい。怪我が心配だったら大人が一人入るから!と。そういう環境作りをしたいです。

ふたたびサッカー選手として…海外で挑戦

(小川さんご提供)

23歳の時に結婚したんですが、サッカースクールの経営が軌道に乗ってきて、新しい挑戦をまた “選手として” 始めたくなったんです。
当時、枚方の先輩がオーストラリアのクラブチームでサッカー選手をしていて、僕もオーストラリアに行ってみようと。スクールの経営は友人に任せた!と英語は出来ないんですけれど、奥さんと一緒に海を渡って、シドニーのチームで1年間プレーさせてもらいました。

(小川さんご提供)

思いっきりがいいですね。奥様はなんと仰っていましたか?

奥さんは本当に僕をずっと支えてくれた人です。付き合ってすぐにJリーガーをクビになっていて。これで別れるのかなと思っていたら、「そんなんじゃないから」と言ってくれたんです。僕が人生で1番どん底な時を知っているのは奥さんだけなんです。オーストラリアに挑戦するのも、「いいよ!」と、「むしろハッピーだね」って言ってくれました。一般的には結婚したら安定にかかるところ、新しい挑戦をすることになったので、僕の親がずっと奥さんに「本当に直毅で大丈夫?」って何回も聞いていました。チャレンジに対して快く送り出してくれた奥さんのご両親、奥さん、自分の両親に、とても感謝しています。

オーストラリアはプロリーグですか?

いいえ違います。地域のセミプロリーグでプレーしていました。オーストラリアは地域リーグのサッカー選手でも生活に十分なお金がもらえるんです。地元の企業がスポンサーでしっかりついていて。サポーターもお金を払って試合を見に来てくれるので、日本よりもサッカーでご飯食べていける選手が多いんです。2019年からオーストラリアにいたのですが、1年経った頃の2020年に世の中がコロナ禍になったので、そこまでして海外でサッカーしたいわけじゃないなと思って帰国しました。あと、枚方、オーストラリアと、地域に根ざしたクラブチームにいたので、次の目標として、サッカーで地域に還元できるような活動がしたいなと思うようになったんです!

地元を活気づけたい 「FC SONHO川西」

(小川さんご提供)

帰国後は地元川西市で「FC SONHO川西」立ち上げたのですね。

そうですね、振り返ると2018年にまずは川西市にチームを作ろうと市に挨拶に行きました。川西市のスポーツ課の係長の方にお会いしたら、係長は鹿島アントラーズのファンで「おじいちゃんおばあちゃんが、ユニフォームを着て、週末になったら試合に応援に行くためにスタジアムに歩いていく姿を見てきたので、川西もそういう街になったら良いな!」と、言うてくれたんです。お年寄りも試合に足を運ぶ。係長の話を聞いて、そういうのが地域の文化だなと感じたんです。川西市って人口15万人もいるのに、地域のスポーツチームが1つも無い。地域に根ざしたチームが作りたいと感じました。サッカーってJリーグを目指すことがたいていスローガンになっているけど、川西市の15万人が盛り上がってくれたらそれで僕はオッケー!15万人が1000円出してくれたら、チームが回る。そんな町が応援してくれるようなクラブを作りたいんです。

チームにはどんな選手が揃っていますか?

僕が一緒にサッカーをしてきた気持ちの良いメンバーばかりです。登録は27、8人で下が24歳で上が29歳の若いメンバーが揃っています。YouTubeにも活動を載せているので、是非是非みなさんチャンネル登録をお願いします!

https://youtube.com/channel/UCRk91ZMKxHbr3x939-eeQ6w
↑(小川選手のYouTubeはこちらから)

今後はどんな活動をしていきたいですか?

「FC SONHO川西」のスローガンは『SWEET』です!
これは頭文字を取っていて、SWEETの『S』は、『Sports』の『S』です。これは、クラブチームの活動であったり、さらには僕たちはサッカーを通じて楽しい運動の機会を作って欲しいとの思いから、『健康のためのダイエット×フットサル』を組み合わせた活動を毎週土曜日に行っています。また、スポーツの素晴らしさを伝えていきたいし、良い出会いの場もこれからも提供していきたいです。『W』は、『Welfare』です。福祉の観点からサッカーを通じて運動の機会を増やしたい。例えば、障害がある方と健常者がサッカーを通じて繋がれるような街づくりを作っていきたいと考えているので、公的な機関や企業と協力しあっていきたい。イベントなどの仕掛けも作っていきたいです。
次の『E』は、『Education』。サッカースクールを通じて子どもたちに健全な敎育活動の場を与えて行きます。
続くもうひとつの『E』は、『Eat support』。『Eat support』という管理栄養士のコミュニティを運営していて、栄養のプロが地域の方々に正しい食の知識を提供していきます。実際に、Jリーガーなどのプロのアスリートの方々や、スポーツ団体などをサポートしています。
https://www.instagram.com/p/CXV0rMyP9Vf/?utm_medium=copy_link↑(Eat supportのアカウントはこちら)

最後の『T』は『TOKEN』。日本にはあまり馴染みがありませんが、仮想通貨を総称してトークンと言います。
海外発祥のもので、ヨーロッパのクラブチームでは沢山取り入れられて話題になっているものです。
僕たちが始めたのは株式会社フィナンシェの「ファントークン」というもの。アプリからトークンをサポーターの方に買ってもらい、サポーターの方がトークンを使ってクラブチームの運営の一端を担ってもらう、
資産計上されない株、をイメージしてください。
次世代のクラウドファンディングとも呼ばれています。
クラウドファンディング だと、購入して物をもらえたり寄付だったりと、単発で終わりますが、トークンを購入してもらうと、クラブの運営の一部に関わる投票や特別な特典を受け取ることが出来るんです。
例えば、僕らのクラブのユニフォームを決める投票権を得られたり、僕らのクラブの企画や演出の決定に参加できます!単発の買いきりで終わるものではなく、継続した関係になっていくことが、クラウドファンディング との最大の違いです!一緒に僕らのクラブチームを運営していってもらえれば嬉しいです!

最後に、Jリーガーを目指すお子さんや子育て世代でお子さんがサッカーをしている方達に、体験を交えて伝えたいことはありますか?

僕はプロになってから苦労しましたけれど、プロになって良かったなっていう思いの方が、遥かに大きいんです。苦労した1番の理由が「サッカーは楽しい」という初心を忘れてしまったこと。
子どもの頃から父にはずっと「サッカー楽しめよ」と言われていました。僕の試合後、車に乗って迎えに来てくれた時に「サッカー今日楽しんだんか?」と、いつも聞いてくれていたんです。僕が「面白かった」「こんないいプレーが出来た!」って答えて、それがきっとプロになれた根底にあると感じています。

僕の人生の哲学は「“楽しい” “面白い” と思ったこと以外やらない」これはサッカー選手になった時から決めています。その分苦労もしましたけれど、今まで選んできたことは全て「楽しめるかどうか」が全てだと考えています。お子さんにも「楽しい?」と、聞いてあげてください。僕は物事を楽しむことがきっと良い方向へ導いてくれると確信しています。みなさんもぜひ、好きなことや楽しいことを追求してください!

小川さんの情報はこちら

FC SONHO川西note
https://note.com/fcsonhokawanishi

Twitter
https://twitter.com/enjoynaoki

Facebook
https://www.facebook.com/profile.php?id=100031122474369

Instagram
https://www.instagram.com/naoki.ogawa/?hl=ja

YouTube
https://youtube.com/channel/UCRk91ZMKxHbr3x939-eeQ6w

FC SONHO川西 ファントークン FiNANCiE
https://financie.jp/users/fcsonho2018