今回は番組史上初めて、陸上競技〝以外〟のアスリートの人生に迫りました。
東京パラリンピック、カヌー日本代表/スプリント男子カヤックシングル(運動機能障害KL2)の辰己博実選手です。
出身は徳島県ですが、北海道の大自然に魅せられて移住。奥様や北海道で出会った仲間達に支えられながら、見事、東京2020パラリンピックに出場。
今年45歳を迎える辰⺒選手の次なる目標は、2024年パリパラリンピック。
夢や目標を叶えるために必要なことは、〝出来ることを少しずつ積み重ねていくこと〟だと話す辰⺒選手のアスリート物語、必見です!
目次
釣りに熱中した少年時代
ーー子供の時にやっていたスポーツってあるんですか?
僕は正直、スポーツとか運動って全然得意じゃなかったので。
球技とか本当、全然ダメですし。運動は学校の体育ぐらいですね。
それくらいしか本当、やってなかったです。
ーー体育の運動会や50m走は?
全然ダメですね。
本当に、運動神経っていうのはあまり良くないので。だいたい真ん中より、上かな?下かな?ぐらいの感じで。飛び抜けていいものは出てこなかったです。
ーー部活でいうと中学、高校は何部だったんですか?
中学生の時に柔道をちょっとやってたんですけど、ちょっとやって、辞めてしまって。あんまり僕、やっぱり部活とかは合わないようで(笑)。なので、中学校、高校と、ずっと釣りばっかりやっていました。
ーー何釣りですか?
ブラックバスだったりとか、鯉やフナ、ナマズを釣ったり。
僕の実家から1番近いところで、吉野川と言う大きい川があるんですが。そこまで20分から30分で電車で行けたので、本当に、よく釣りに行ってましたね。
ーーアウトドアへの関心っていうのは、もう物心ついた頃から?
遊び場でした。アウトドアという感覚もなければ、そういう言葉も多分なかった時代だと思うんですけど。そういう場として、山とか川とか海で遊んでいたっていうだけですね。
高校卒業後、徳島から上京
ーー高校卒業後はどこへ進まれたんですか?
高校を卒業してからは、東京の会社に就職して、東京で数年間、生活をしました。
ーー高校を卒業して就職をされた。何の会社ですか?
鉄鋼系の会社です。
うちの実家がですね、鉄工所をやっているんです。それで、高校卒業と同時に親から外の釜の飯を食ってこい、と。まぁ、武者修行ではないですけど…ちょっと外で働いてこい、みたいな形で行ったのが、東京でした。
ーーご実家が鉄工所をやられてて、武者修行で東京に行って…。戻る前提で行かれた?
最初はそのつもりで。
ーー今、この大自然の中にいるということを考えると…(笑)?
ちょっとズレちゃったかもしれないですね(笑)。
週末は山へ、海へ
ーーおいくつまでお勤めになったんですか?
22歳ぐらいですかね。
東京に行く前からスノーボードをやっていたんですよね。
関東からだと、ちょこちょこ行けるスキー場があるので、東京に行ったタイミングで、そこにスノーボードをしに行くようになったりとか。同時に、サーフィンなんかも始めて。東京からだと千葉とも近いので。就職をしている間も、勿論、街に遊びに行ったりもしたんですけど、だいたい山に行ったり、海に行ったり…。
週末休みの日はそのような生活を続けて、それなりにお金も貯めて。
そのお金を使って、スノーボードに打ち込みたいな、と。しっかりやりたいなと思って最初に来たのが、北海道だった。
奥様との出会い
ーー先ほどもチラッとご挨拶をさせていただいたんですけど、素敵な奥様との出会いはどのあたりで?
実家の仕事を辞めて、僕が北海道に来てすぐくらいですかね。
ーーどこで出会ったんですか?
北海道に来て仕事として何をしようかと考えた時に、こっちにいた仲間たちの中でも、夏の仕事でラフティングをしている人たちが結構いて。話をしていたら、『出来るんじゃない?やってみれば?』って、軽い気持ちで本当に誘われちゃって。
『出来んの?そんなの』って言ってたんですけど。
『まぁ、まずはやってみなよ』って言われ
て始めてみたら…。ラフティングの仕事は、楽しい部分も勿論あるんですけど、お客さんの安全だったりとか、ガイドの技術とかスキルで、安全にお客さんを川下りさせて帰らせるっていう仕事内容にも、きっと面白みも感じたんですよね。
今まで接客業なんて僕、やったことはなかったんですけど、そこに関しても、なんかちょっと面白いかも、と思って。あと、それをやっている先輩たちを見てたら、それで生活をされている人たちもいて、これを仕事としてやっていくっていうのもありだなって。この場所だからできることだなとも思って、そっちの世界に入っていきました。
そこの会社でラフティングのトレーニングをしていた時の同期だったのが、さっきの話に出た、うちの奥さん。そこで、たまたま出会ったんですね。
北海道に移住、趣味が仕事に
ーー夏はラフティング、そして冬はスノボ。
冬はスノーボードをして、夏は働いてた会社でインストラクターをやったり。
バックカントリースキーやスノーボードが、この辺は結構有名なんですよね。
羊蹄山なんかを、お客さんを案内して下から登って行くんですけれど。一緒に良い斜面を見つけて、お客さんと滑って帰ってくるツアーガイドです。
夏のラフティングのツアーガイド、冬のバックカントリーのツアーガイドっていうところに、僕のスノーボードのスキルが使える。あと、夏にやってきたお客さんの手配をするとか、そういうところも全部使える。そこで、こういうふうに、生活の基盤が出来ていくんだなっていうところに至った、っていう感じですね。
ーーご自身のスキルと世の中が求めているものが一致したというか。
そうですね。うまいことハマった場所だったんですよね。
突然の事故で脊髄を損傷
ーー好きなアウトドアも思いっきりできるし、そこで毎シーズンのように仲間も増えていく。最高な環境の中での、事故…。
怪我をしてしまいましたね。
春にスノーボードを滑りに行って。僕はパウダースノーが大好きだったので、雪が降っている時っていうのは、そういうパウダースノーのあるところを、森の中や山の中で滑るようにしてたんですが。
春になるとそういうパウダースノーがなくなってくるので、ゲレンデ遊びをしてたんですよね。ゲレンデで滑る中でのジャンプとかも好きだったから、ジャンプ台をずっと飛んでいて。そのジャンプ台を跳んでいる時に、自分のミスでバランスを崩して、背中から落ちてしまって。背中から落ちた時に、背骨が折れたっていうことですね。
ーーその時の衝撃とか、痛さっていうのは。
もうね…痛いのはとにかく痛かったんですけれど、どれくらい痛かったというのは正直覚えていないですね。でも、想像を絶する痛さというか。とにかく痛かったですし、気でも失ってくれれば楽だったのになと思ったんですけど、ずっと意識はありました。
ーー気づいたら病室とかではなく?
そうではなかったですね。
ジャンプをして、どんと雪面に叩きつけられて背中を打ったんですけども、その瞬間に、打ったところから頭と爪先のほうにバンって電気が流れるような衝撃があって。
次の瞬間から腰から下の感覚が全く無くなって、全く動かなくなったんですよ。これはさすがにまずいな、と思いながらも何もできなくて。
奥さんと一緒に滑ってたので、奥さんもそれを上から見てて。急いで降りてきて「大丈夫か?」「いやダメだわ、動かん」と。その時、仲間も周りにいたので、仲間がパトロール呼んでくれて。この近くに自衛隊があるんですけれど、そこの自衛隊まで運ばれてヘリに乗って、病院まで行ったっていう感じで。
ヘリの中、痛みと戦い続けた45分
ーー病院は札幌市内?
札幌をさらに通り越した、美唄(びばい)。その病院というのが、僕の怪我の状態でもある脊髄損傷の専門病院で。脊髄損傷について詳しい病院に運んでもらったので、1番いいところに早く運んでもらったんだと思うんですけど。なんせ、そのヘリコプターで40分くらい飛んでたんですが、とにかくずっと痛いんですよね。もう何も考えられないし、痛みしかない。痛みに集中すると無理なので、ひたすらずっと数を数えていました。何千を数えたか覚えてないですけど、何かに集中してないと。痛みに集中しちゃうと、もう無理なので。
ーー痛み止めを打ったりとかは?
それが、はじめはドクターヘリが来るっていう話だったんですよね。
ドクターヘリが来たら感覚の検査とかいろいろやってくれた上で痛み止め打ってくれるから、みたいな話だったんですけど、そこに来たヘリが防災のヘリだったんですよ(笑)。防災かい!まじか!みたいな(笑)。勿論、ドクターが乗っていないので、処置をしてもらえないって言われて。『とりあえず運ばないといけない(運んでほしい)』『どこまで?』『美唄』『美唄?聞いたことないな。どこなんだろう?』『どれくらいかかるの?』『45分くらいかな』って言われて(笑)。結構、地獄でしたね。
ーーそのヘリには奥さんも同乗されて。せめてもの支え…。
そうですね。でも当時、奥さんも一緒に乗っているのかもわからなくて。隣とかにはいなかったですから。(奥さんは)ちょっと離れたところにいて、処置する人が1番近くにいる感じなんですけれど、目も開けてなかったです。だから、ヘリの中がどうなっているのか全く知らなくて。ひたすら目をつむって、数を数えて。ヘリコプターに乗った時の音とか、そういうのは、ほぼ覚えていないです。自分が数字数えてたっていうくらいしか、ほぼ(覚えていない)。
ーーその時っていうのは、〝明日からどうなるんだろう〟っていうのは?
そんなの、何も考えられないです。まずは、今の痛さにどうやって自分が向き合わないようにするか(笑)。向き合っちゃうと本当に辛いので。ひたすら数字を数えてたっていうのが、その時ですよね。改めて振り返ると、それくらいしか覚えていないですね。
本当に気でも失ってくれたらどんなに楽かなとも思ったし。
でも、そんなことはなく、病院に着くとやっとそこにはドクターがいるんで、色々と感覚の検査とかしてもらうんですよね。一通り検査をして、痛み止めを打って、そこでやっと一段落って感じで。そこでようやく、ちょっと、何分か寝れたんですよね。
そうして寝て、起きた時にドクターが入ってきて。最初にレントゲンの写真を見せられて、『背骨が折れています。背骨の中には大事な運動神経が通っています。要は、足や手の動きを司る中枢神経のある脊髄を損傷してしまったので、あなたは一生歩けることはないし、一生車椅子生活ですよ』っていうのが、ドクターから最初に言われた一言だったんです。数時間前に怪我をして、痛い思いをして、ヘリコプターで運ばれてきて、全部の検査が終わって。
でも僕の中でも、恐らくそういう事だろうな(一生歩けないかもしれないな)、となんとなく分かってたところがあって、『そうですか、分かりました』と。それで、手術をお願いしますって言うしかなかったですね。
変にはぐらかされずに、そこで(ドクターが)スパッと言ってくれたのが、1つの切り替えのタイミングではあったかなと思います。
絶望の中で見つけた希望
本当に何も出来なかったんですよね。
手術が終わって、病室に運ばれて、数時間おきに寝返りを打つのも看護師さんがきてくれて寝返りをさせてくれるっていう状態で。
自分では全く何も出来ない。交互に手とかは動かせるけれど、動かしたら〝痛ぇ〟みたいな感じだったので。本当に何も出来ない状態だったのが、1週間ぐらいそういう状況を続けていると、(慣れてきて)だんだんベッドから体が起こせるようになったりとか。首もちょっと横に向けてみたりだとかもできるようになってきて。じゃあそろそろ車椅子に乗ってみようか、みたいな感じになって。
今なんかは、自分の車椅子があるし、自分で移動して、例えば車に乗ったりとか、ベットに乗ったりとか、車椅子に乗り換えたりとかっていうのを、当たり前のようにできるんですが、その当時って、何も出来なかったんです。車椅子に乗るのにも、クレーンみたいなリフトが吊り下げられて、そこに乗せられて…みたいな感じだったんですけど、車椅子に乗ったら、ある程度、出来るところも見えてきて。次の段階として、自分が出来ることや生活だったりとかを全て獲得していかなきゃいけないっていうので。そこをなるべく早く獲得するっていうのに必死だったところがやっぱりありました。
あと、僕のいた病院は脊髄損傷の専門の病院だったんですけど、リハビリ室の中に車が1台置いてあったんですよね。
ある時、先生に『これ、何なんですか?』と聞いたら、『ちょっと開けて見てみな』と言われて。開けてみたら、運転席のところにレバーが付いているんですよ。『これなんなの?』って聞いたら、『これは手動運転装置と言って、足が動かなくて車椅子に乗っている人が、手でアクセルブレーキの操作が出来る車だよ。』って。
『あ、これ俺、まだ終わってないな(やり遂げてないな)』ってすごく思った。
そこがまず入院して、リハビリしたりする中で僕の中での1番の希望はでした。
これがあれば、まだ(自分は)終わってないなって。やっぱり車が運転できるっていうのが1番の希望にはなりましたね。
パラスポーツとの出会い
ーーちょっとずつ日常生活で出来ることが増えてきて、そして〝競技(パラスポーツ)としてのカヌー〟との出会いに繋がったんですか。
ラフティングの仕事をしている時にトレーニングの一環として、僕はカヤックを始めたんです。障害があってもカヤックをやっていたことで、障がい者カヌーをやられてる方に、『今度リオオリンピック、パラリンピックから正式種目になるカヌーの種目があるから。君なら出来るんじゃないか、やってみないか』と。
そこでやっと競技に繋がるんですよね。怪我をする前からやっていたことが、怪我をしてからも(繋がった)。『それなら出来るんじゃないか?やりたい!』と思うところがあって続けていったら、たまたま本当に、競技(競技人生)に繋がっていったっていうところです。
ーーまた1つ、大きな目標をそこで見つけるわけですね。
そうですね。そこで培った技術だったり、フィジカルや体力が、競技だけじゃなくカヤックにも生きる。
今、僕、サーフィンもやっているんですけれど、サーフィンにもそこが生きるというのがあったので。すごく、競技のトレーニングってしんどいんですよね。でもそのしんどいのが…トレーニングも〝充実〟に繋がるから。だからやっていける、っていうところが大きいですね。
パラリンピック当日の心境
ーー東京パラリンピックは1年間の延期もありました。気持ちの保ちかたとか、フィジカル面の調整も大変な部分があったかと思うんですけど、パラリンピックを迎えた当日はどんなお気持ちでしたか?
まぁなんか…ぶっちゃけ、普通でしたね(笑)。
もっと緊張するかなって思ってたんですよね。もうどうしようもないくらい緊張して、(結果が)ダメダメだったとかなるのかなと思ったんですけど。本当にびっくりするくらい緊張しなかったですし、僕は、そこでできるだけのことができたなっていうのは自信を持って言えますね。(スプリント男子カヤックシングル運動機能障害KL2 11位)
ーーでは最後に、こちらの色紙に辰己さんの次なる目標をお書きいただけますでしょうか。
パリも出場!―辰己博実
(色紙を持って)これ、目指したいと思います。
ーーもう(目標達成は)見えていますか。
まあ、パリパラリンピックはもうちょっと先ですし、パリの前にはアジアもあるので。
アジアでしっかり成績を残して、そこから次を見据えて、パリ(に繋げていきたい)。
当面の目標は、大きいタイトルとしてはやっぱりパリパラリンピック出場なので、ここはしっかり見据えてやっていきたいと思います。
年齢は関係ない。今より、来年が〝もっと強い〟
ーー年齢的には40代ギリギリ…。
今、44歳なので、その時は47歳になってますよね。
ーー全然、まだまだですか。
正直な話、今が1番強いと思ってるんですよね。なので、年齢って僕はあまり関係ないと思ってて。継続的にトレーニングをずっと積めている分、僕自身、どんどん強くなっていますね。今の僕より、来年の僕の方が絶対強くなってるっていう自信があるので。そう思えている間はずっと競技を続けられると思います。
そうじゃなくなった時が、競技を続けるか続けないかを考えるタイミングになるのかなと思いますけど。まだ全然、そんなつもりはないですね。
ーー今日お会いする前に、辰己さんってどんな強靭な体力、精神力をお持ちの方なのかなと想像をしながら来たんですけれど。言葉は違うかもしれないですけど、本当に普通の方で…(笑)。
普通ですよ、全然(笑)。普通のおじさんなので(笑)。
ーー好きなことを、ただただ一生懸命やりたい。そして、今やるべきことを一生懸命やり続けた。
その全部が合わさって、あの大舞台に上がられたんじゃないかなって。
もしかしたら、今、辰己さんと同じような事故で、生きる希望や目の前のことが見えなくなっている人がいるならば、どんな言葉をかけてあげたいですか?
まず、自分は何をしたいのか、どうしたいのかっていうところを、1回考えて。
自分の出来ることしか出来ないし、出来ないことは出来ないんですよね。
でも、出来ることを少しずつやっていったら、今まで出来ないと思っていたことが出来たりする。自分ができることを少しずつやっていったら、今までできないと思ってたことができたりすることもあるので、自分が今できることをやっていくっていうのが1番大事じゃないかなって僕は思いますし、そうやって僕は生きてきたのかなって思います。
ーーおっしゃっていることって、至極あたりまえのことなんですよね。
そうなんですよ、あたりまえ。僕はそんなに特別なことはやってないと思います。
当たり前のことなんですけれど、それを積み上げれば、ここまでいけたっていうお話ですかね。
ーー本当に心強いです。障害のある方、ない方にかかわらず、今の自分でいいのかなとか、もうこれから先楽しいことがないのかなって、若い年代でも思っちゃう人いるじゃないですか。
全然そんなことないと思います。
僕、まだまだやりたいことがいっぱいありますし、まだまだ出来るんじゃないかなって思いますよ。
ーーなんだか私もまだまだやらなきゃ!という気持ちにしていただきました。
出来ることから始めてみてください。
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告白。突然の事故で車椅子生活に…【辰己博実】 【前編】
歩けなくても、できること!絶望の中で見つけた希望【辰己博実】 【後編】
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