幾度もの苦労を乗り越え、この春からJR東海で社会人野球を続け、2年後のプロ契約を目指す道を決断した山本晃大(やまもと・あきひろ)選手(慶應義塾大学※2023年3月卒業)。
高校野球の名門・浦和学院高等学校から周囲の反対を押し切り、浪人を決断。過酷な浪人生活を経て、晴れて慶應義塾大学への入学を叶えた経験から、プロ野球選手を目指す学生の新しいロールモデルになれたらと話します。そんな山本選手のベースにあるのは、どんな経験も成長するチャンスに捉えるマインド。学生アスリートなら誰しもが経験する、アスリートとしてのキャリア選択、デュアルキャリアやセカンドキャリアとの向き合い方、浪人やスランプ時期の乗り越え方についてお話を聞きました。
目次
『ミスをどう経験にしていくか』兄から影響受け、野球の難しさに惹かれた幼少期
Q自己紹介をお願いします
慶應義塾大学4年生の山本晃大(やまもと・あきひろ)です(2023年3月卒業)。出身高校は浦和学院高等学校で、幼い頃からずっと野球をやってきました。2022年11月6日の早慶戦を最後に引退し、今後はJR東海で野球を継続する予定です。
Q野球を始めたきっかけや惹かれた理由は?
わりと小さい頃からスポーツはできるほうで、幼稚園の3~5歳くらいの時から水泳やサッカーをやっていました。同じ時期に、6つ離れた兄が野球をやっていたので、よく応援に行ったり、一緒に練習したりしていたんです。その中で、野球だけはなかなかすぐに上達しなくて。「水泳やサッカーは簡単に上手くなるのに、なんで野球ってこんなに難しいんだろう」と感じたのが、僕の野球への興味を掻き立てた1番の理由だったと思います。
Q振り返ってみて、どんなところが野球の難しさに繋がっていると感じますか?
(競技の性質上)“試合の中で絶対にミスが起こる”というところだと思います。10回打って、3回成功したらイーグルバッターって言われるように、野球はミスをする方が多いスポーツですし、現実をすごく突きつけられる競技だなと感じます。今思えば、1つ1つ失敗を経験していく過程が好きだったのかなと思います。その気持ちは、大学時代も感じていました。
Q野球を始めた幼少期から中学時代まではどのように過ごされていましたか?
もともと福島県で暮らしていたんですけど、小学校入学前に埼玉県に引っ越してきて、幼稚園年長くらいの時期から、兄と一緒に野球を始めました。兄の友達や年齢が上の人たちと一緒に野球をやっていたので、あまり自分が上手いという感覚はありませんでした。同学年の人たちと比べたら、それなりにはできた方だったと思うんですけど、兄や兄の友達に凄く上手い人たちがいる中でやっていたので、自分はまだまだだなという感じながら過ごしていました。
Q 中学時代には東京ヤクルトスワローズジュニアにも選出されたそうですね?
はい。小学校6年生の時にセレクションがあって、2つ上の先輩たちが東京ヤクルトスワローズジュニアのセレクションを受けていたので、「僕も受けてみようかな」と思い、受けてみたら合格をいただくことができました。ただ、受かった嬉しさはあったものの、選ばれた後にその中でどう頑張るかという思いの方が大きかったと思います。
『誰もが行かないとこに行ってやろう』プロへの思い胸に、様々な野球との向き合い方に触れた学生時代
Q浦和学院高等学校に進学を決めた理由は?
当時は、甲子園に行かなきゃプロになれないと思っていたので、まずはプロに注目されることや、甲子園で活躍することが必要だと考えました。そんな中、家からも車で30分くらいで行ける地元に浦和学院高校があり、みんなが応援してくれる場所で地元を背負って活躍したいという気持ちもありましたので、母校への進学は自然な流れだったように感じます。
Q浦和学院高等学校での学びは?
〝野球ひとつに懸ける〟ということを学ぶことができました。高校3年間は寮生活で、携帯もなかったですし、いろいろな制限がある生活の中で甲子園出場だけを見つめ、野球に懸けていたなと思います。今思えば、もっと違うやり方もあったのかな、ディズニーランドにも行きたかったな、とか思ったりもするんですけど(笑)。いろんなことを我慢しながらも、3年間頑張り続けた経験っていうのは、今の自分の中での基準になっています。あの生活と比べてまだマシかな、あの経験に比べたら今って幸せだな、と感じる基準になっていますね。
Q慶應義塾大学への進学を志したきっかけは?
甲子園への埼玉県大会の決勝で負けた当時、プロ入りへの目標も持っていたんですけど、当時の自分のレベルを考えると、「すぐにプロに行くよりも、大学を経てプロに行ったほうがいい」っていう気持ちがありました。高校時代の3年間は野球ひとつに賭けてやってきたので、違う環境を見てみたかったという気持ちがありました。もう1つは、決勝の場にいた選手たちは、すごく野球が上手で…。だからこそ、「決勝にいる選手たちが誰も行けないところに行って、自分は野球をやってやろう!」と思い、慶應義塾大学への進学を意識し始めました。
Q実際に慶應義塾体育会野球部の雰囲気はどのように映りましたか?
高校の野球は上下関係がガチガチで厳しかったので、慶應の雰囲気は、それとすごく対極にあったというか…。自分が今まで経験してきた野球とは違う雰囲気が、慶應のグラウンドにはありましたね。1年生から4年生まで仲が良いですし、指導者ともすごく距離が近くて、家族みたいな雰囲気があることに魅力を感じました。高校時代、甲子園への決勝で負けてしまった時、ここまでやっても負けるんだっていうことを実感し、〝この野球のスタイルだと、ここで限界なのかな〟っていうのを感じました。なので、自分をもっと伸ばすには、もっと違う野球のスタイルに触れる必要があるなと思いました。
Q実際に慶應義塾大学体育会野球部に入部し、想像とのギャップはありましたか?
全然なかったですね。高校時代の組織と比べても、今となっては、どちらも一長一短だなと感じます。高校時代の野球のように、集中して半ば強制的に取り組むというのが重要な局面もありますし、大学時代の野球のように、自分で考えて取り組むというのが重要な時もある。両方とも、良い点と悪い点があるのかなと思います。今後、自分が指導する立場になったら、そこを使い分けられるようなコーチングをしたいなと思います。
『嬉しさ半面、苦しさ反面』周囲の心配を押し切り、成長するチャンスに飛び込んだ浪人時代の原動力
Q浪人時代の心境は?
やっぱり野球もやりたかったですし、苦しかったんですけど…。でも、浪人という選択は結構おいしいなって思っていました(笑)。浪人という選択を浦和学院高校からする人もいなかったですし、慶應義塾大学に行く人もいなかったので。周囲と違う道を辿りながら、最終的に目標にしていたプロに行けば、なかなかおいしい物語ができるんじゃないかなって考えていました。周囲のプロに入って活躍している姿や、大学に入って野球をやっている姿を見るのは、まさに〝嬉しさ半面、苦しさ半面〟でしたが、この経験は絶対に自分にプラスに働くんだ、とポジティブに捉えて過ごしていました。
Q浪人という選択へと山本選手を突き動かしたマインドは?
高校3年間、苦しい時にもたくさん練習をしましたし、自分に与えられる時間も少ない中で、自分の苦しさや甘えが出た時に一歩乗り切ること。それが、自分の成長に繋がるチャンスだと受け止められていたことが力になったんじゃないかと思います。高校3年間の学びがあったからこそ、浪人時代を踏ん張れたのかなとも思っています。
Q浪人を決めた時、両親や周囲からの反対はありましたか?
家族は応援してくれていたんですけど、「野球はどうなんだ?」と僕のことを思って言ってくれる人もいました。プロになりたいという夢を周りも知っていたので、1浪することによるデメリットも考えて「浪人したらキツくなるよ」とも言われましたし、「浪人自体どうなんだ?」と言ってくれる人もいました。
Q反対もある中で慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)への進学を志した理由は?
自分の学力と、慶應義塾大学入学への実現可能な手段を考えた時に、本当に恥ずかしいんですけれど、高校3年間は勉強もしっかりできていなかったので…。何教科もやる余裕はないなと思っていました(笑)。SFCのAO入試がダメだったら、1教科に絞って一般受験もできるので、「慶應に入るならSFCしかない!」と思って、頑張っていましたね。
浪人時代のフィールドワークで考えさせられた〝野球人生のその後〟
Q浪人時代にフィールドワークをされていたそうですが、具体的にどんな活動をされていたんですか?
AO入試のテーマがキャリアだったので、野球選手のキャリアのことについて書いたんです。当時、一般社団法人大学スポーツ協会(通称:UNIVAS)という大学スポーツ組織の発足時期と被っていたのもあり、その会議の聴講をしたり、文科省まで行って話を聞きに行ったりしました。プロを引退し、野球塾をしている方や女子野球の監督をされている方にインタビューをしに行ったりもしていました。
Q実際にインタビューする中で、プロを引退された後のセカンドキャリアに励む方々と話してどう思いましたか?
厳しい世界だなと思いました。プロを引退して野球塾をされている増渕竜義さん(元ヤクルト投手)という方は、埼玉のスターだったのですが、そういう人でも野球を離れなければいけない時が来るんだということを切に感じました。自分がプレーをするという場所から離れなければいけない現実が必ず来るんだな、っていうことを学びました。
Q浪人時代の1日のスケジュールは?
予備校に行って、8時~14時まで英語、そこから1~2時間をAO準備に使い、16時に終了。帰宅後の18時からは、野球の練習をして就寝するという感じでしたね。
Q現役時代と比較すると、練習量が格段に下がったのでは…?大学の野球部に入部してから、現役時代の体力や身体に戻すまでに時間はかかりましたか?
浪人時代の18時からの練習は、東京ヤクルトスワローズジュニア時代の監督に教えてもらっていたので、技術面においては逆にレベルアップしていたと思いますが、どうしても走量とかは減っていたので、(大学野球部に)入って、元のポテンシャルに戻すまでには時間を要しました。大学1年生の時は練習するのがやっとというか…。丸1日練習するのが久しぶりだったので、最初はしんどかったですね。
Q晴れてSFCに合格、大学時代を振り返ってみていかがですか?
大学入学前までは野球という小さいコミュニティの中で生きてきて、接点も野球関連の方としかないような状態だったので、SFCに行って野球以外の友達ができたっていうのが1番大きなことだったかなって思います。ちなみに、卒論はアスリートの身体感覚の違いについて書きました。
Q大学での練習量はどれくらいでしたか?
途中で監督が変わってしまったんですけど、1年生の時は9時から13時で終わるスケジュールでした。
Q大久保秀昭監督(2015‐2019)から堀井哲也監督(2019‐)に変わったタイミングで求められる打撃スタイルが変わったと思いますが、具体的にどう変わったんでしょうか?それに応じて、どうアプローチをしていたのかについても教えてください。
僕自身、もともとそんなにホームランや長距離を打つバッターではありませんでした。相変わらず、大久保監督の時もロングヒットを打つタイプじゃなかったんですけど、堀井さんが監督になられてからは、慶應野球部で左の長距離バッターがいなかったので、そういうバッティングスタイルにして欲しいということを言われました。ロングヒットを打つ感覚がなかったので、その感覚に寄せていくことに時間がかかりましたね。大学1年生の終わりに堀井監督が就任されたんですけど、その時に長距離を打つためのバッティングスタイルを教えてもらって、その感覚に慣れるまでには、丸2年かかりました。
Qバッティングスタイルを監督から教わったのですか?
はい。監督に毎日ついてもらって、手取り足取り教えていただきました。
Q高校時代と比べて、大学の監督との距離感はどう感じられましたか?
高校時代は組織のトップが監督だったんですけど、大学時代はそういう面もありながらも、気になることがあったら相談できるお父さんみたいな存在でしたね。そういった距離感を堀井監督も求めていたので「いつでも相談してきてほしい」って言ってくれていましたし、本当にお父さんみたいでしたね。
『自分も下を向いていられない』苦しい時期でも腐らなかった理由
Q大学4年間を振り返ってみて、印象に残っていることは?
1年生で入部してから春のリーグ戦に出たり、秋に日本一になったり、ベンチに入ってメンバーとしてやってきていたんですが、2年生で監督が変わって、自分が思うようにバッティングできず、力を発揮するのが難しい時期もありました。1年生の時とは打って変わって、2年生から3年生はなかなか試合に出られることもなく、そういう経験自体も初めてだったので、その悔しさをどのようにぶつけて良いのかもわからず、とても苦しい2年間でしたね。
当時、1年生から3年生までずっと試合に出ていたのに、4年生になったタイミングで試合に出られなくなった2年上の島田さんという副将の選手がいて…。僕と同じタイミングで試合に出られなくなった方だったのですが、下を向くことも腐ることもなく、チームに対してずっと積極的に関わって、ご自身の練習もしっかり続けられていて、自分も下を向いてられないな、というか…。自分も腐ってるわけにはいかないな、と思わせていただきました。(試合に出られなかった)自分自身の2年間、しんどい部分もあったんですけれど、島田さんがいて下さったことで、頑張ることができたと思っています。
そんな姿に傍で触れられたこともそうですし、自分が(試合に)出られないという経験ができたことこそ、この4年間で得た1番大きな学びだったんじゃないかと思います。自分自身が苦しい時でも、そうやって努力している人を知ることができたし、自分自身もそのように取り組むことができたので、今までにない経験ができたんじゃないかと感じています。
『一浪という選択をしても野球の道を進んでいける』社会人アスリートとして伝えたい勇姿
Q新天地・JR東海ではどのようなイメージで野球を続けていきたいですか?
まずは、2年後のプロを目指したいなと思います。このようなバックグラウンドを持つ僕が、プロに行くことにこそ、意味があるんじゃないかなと思っていて…。浦和学院高校時代の野球漬けの生活から、浪人をして慶應義塾大学という選択をした中で、「一浪したから、結局プロに行けなかったじゃん」というので終わりたくないので。〝一浪という選択をしても野球の道を進んでいける〟っていうことは、僕がプロになることで伝えることができるメッセージだと思うので、この2年間はプロになることをイメージして練習したいと思っています。
Q浦和学院高校の後輩からの反響はいかがですか?
当時、浦和学院高校から慶應義塾大学を目指すことはありえない選択だったので…。「そういうのは無理だよ」っていう声が多かったんですけど、僕が(慶應に)入ったことで、その考え方や風潮が変わりつつあるみたいです。最近は、後輩が「慶應に行きたいから」と練習を見に来てくれたりするんですよ。1つのモデルロールとして、選択の幅を広げて考えさせてあげられるようになったのかなと感じています。
Qこれからの仕事と野球の両立について、どんなイメージを?
野球をやりながらなので、自分が社業に関われる範囲も限られてきますし、部署もまだ決まってないので、明確なイメージは持てていないのですが、両立をしっかり頑張っていきたいなと思います。今、思い描いているビジョンとしては、まず2年間は真摯に野球に打ち込みたいと思っています。もし、プロ入りがダメだったら、すっぱり野球は辞めて仕事に打ち込む、という選択を取るかもしれないなとも感じています。実際にその状況になってみないと分かりませんが、どこかでセカンドキャリアを歩む自分の姿を想像しながら、社会人選手としてすべきことを、しっかり全うできたらと思います。
山本晃大選手から“文武両道&キャリア選択に懸ける学生の皆さん”へ
浦和学院高等学校から、浪人&社会人野球というステージを経て、プロ入りを叶えることで、浪人という選択肢を学生の皆さんが自然に思い浮かべられるようになるくらい、僕がキャリアをしっかり歩んでいかなければならないなと思っています。僕は幼少期から野球をやってきましたが、高校では甲子園に行けなかったり、大学でも試合に出られない時期があったり…。順風満帆の野球人生ではないのですが、失敗しながらも自分なりに意味を見い出して、失敗をポジティブに捉えて頑張ってきました。これから社会に出る学生の皆さんは、これからもいろんな失敗を経験すると思いますが、失敗は必ず自分のプラスとして働いてくれます。失敗をポジティブに意味付けすることで、どんどん壁を越えて、自分自身の糧にしてください!
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